東京地方裁判所 昭和36年(刑わ)4249号 判決 1966年2月15日
本籍 福岡県久留米市東町五五番地の一の一
住居 東京都港区麻布三河台町七番地の一一
弁護士 楢橋渡
明治三五年三月二二日生
<ほか一一名>
被告人楢橋渡、同浅井盛夫に対する収賄、同滝嶋総一郎に対する贈賄、証憑湮滅教唆、商法違反、同長田育男に対する贈賄、同久保嘉一郎、同加藤竹治に対する証憑湮滅、同田中太兵衛に対する証憑湮滅、経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律違反、同菊池寛実に対する証憑湮滅、商法違反、経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律違反、同丹沢善利、同宮沢庚子生に対する商法違反、同平沼弥太郎に対する商法違反、経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律違反、同永田雅一に対する経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律違反各被告事件について、当裁判所は検察官、山室章、同早川晴雄、同西本昌基出席のうえ併合審理をして次のとおり判決する。
主文
一、被告人楢橋渡、同滝嶋総一郎をいずれも懲役三年に、
被告人長田育男、同久保嘉一郎、同加藤竹治をいずれも懲役八月に、
被告人浅井盛夫、同菊池寛実をいずれも懲役六月に、
それぞれ処する。
二、被告人長田育男、同久保嘉一郎、同加藤竹治に対しいずれも本裁判確定の日から二年間、
被告人浅井盛夫、同菊池寛実に対しいずれも本裁判確定の日から一年間、
それぞれ右各刑の執行を猶予する。
三、被告人楢橋渡から金二、四五〇万円、被告人浅井盛夫から金五万円をそれぞれ追徴する。
四、訴訟費用は別表記載のとおり、第一項掲記の被告人らの負担とする。
五、被告人滝嶋総一郎に対する本件公訴事実中商法違反の点について同被告人は無罪。
被告人菊池寛実に対する本件公訴事実中商法違反、経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律違反の点について同被告人はいずれも無罪。
六、被告人田中太兵衛、同丹沢善利、同宮沢庚子生、同平沼弥太郎、同永田雅一はいずれも無罪。
別表≪省略≫
理由
第一章 被告人滝嶋、同楢橋関係贈収賄
第一節 認定事実(総論)
一、武州鉄道建設計画
(一) 概要
東京都下三多摩地方と埼玉県秩父市とを鉄道によって連絡させようとする構想は昭和三一、二年頃被告人滝嶋総一郎(以上滝嶋と略称する。他の人名もこれに傚う)の胸中に芽生えた。滝嶋は鉄道専門家の知人数名に相談しながら、次第にその基本構想を固め、昭和三三年秋頃一応の具体案を得たので、従前から鉄道、交通の問題等に理解をもっていた知人の冨永能雄(当時日本工業クラブ専務理事)に腹案を示して賛同を受け、冨永を通じて発起人の人選を進める一方、かねて取引関係のあった埼玉銀行から資金を仰ぐため、同銀行代表取締役頭取平沼弥太郎に協力を求めた。平沼は、計画路線が自分の郷里である埼玉県入間郡名栗村を通過すること、鉄道建設による沿線の発展が埼玉銀行の業績向上にもつながるものであること、滝嶋に対して個人的信頼感を抱いたこと等の理由から、右鉄道の建設計画に賛成し、自ら発起人となって資金面において積極的に協力する、との態度を示した。
かくして滝嶋は、自ら中心となり、長田育男、斉藤秀夫らを督励して、沿線の調査免許申請手続の承合、会社設立の計画等、敷設免許申請の準備に着手するとともに、冨永、平沼らを通じて財界有力者の中から、および当時の武蔵野市長荒井源吉を通じて沿線市町村長らの中から武州鉄道設立発起人を募り、結局、合計二六名の参加を得て、昭和三三年一二月二九日中央区京橋一丁目八重洲口ビル内埼玉銀行東京本部において第一回発起人総会を開催する運びとなった。滝嶋は右総会において武州鉄道(以下武鉄と略称する)の建設に関する基本計画の承認を受けるとともに発起人総代に選任され、会社設立までの免許申請、定款認証等に関する諸手続、経費の調達、支出その他必要な処置一切の委任を受けた。
右の基本計画は、さらに調査検討され、若干の修正を施された結果、昭和三四年一月一三日武州鉄道株式会社発起人総代滝嶋総一郎名義による運輸大臣あての地方鉄道敷設免許申請書が完成し、昭和三四年一月一四日所轄官庁である運輸省東京陸運局鉄道部監理課に提出され、即日受理された。右申請書による武鉄建設計画の概要は、つぎのとおりである。
目的 地方鉄道法により鉄道を敷設し、一般旅客および貨物の運輸営業をなす。
商号および主たる事務所の設置 武州鉄道株式会社と称し、本店を東京都武蔵野市吉祥寺二〇二五番地に設置する。
鉄道事業に要する資金の総額およびその出資方法 資金総額四一億五千万円であって、株式および借入金をもって資金に充当する。
線路の起点 東京都三鷹市下連雀(国鉄中央線三鷹駅)。
主な経過地 小金井市小金井新田。
北多摩郡小平町、国分寺町、大和町、村山町。
西多摩郡瑞穂町(八高線箱根ヵ崎駅)。
青梅市勝沼(青梅線東青梅駅)。
埼玉県入間郡名栗村小沢、鳥居、名郷。
埼玉県秩父郡横瀬村山中、根古谷。
終点 埼玉県秩父市東町。
軌間 一米〇六七。
動力 電気、電力供給者東京電力株式会社。
工事概要
区間 三鷹市青梅市間二八・二二粁、青梅市秩父市間三二・一〇粁、全長六〇・三二粁。
用地 五、五〇〇アール
停車場 三三ヵ所
車輌 客車五三輌、貨車二七輌、計八〇輌。
工事建設費概算 一粁当り六八、八〇〇、〇〇〇円 合計四一億五千万円。
営業収支概算による建設費に対する益金割合八%。
資金計画内訳 自己資金 二〇億円
他人資金 二一億五千万円(日本興業銀行、日本不動産銀行、長期信用銀行、埼玉銀行、三菱銀行その他。)
(二) 創立事務局および関連事業
滝嶋は、武鉄の免許申請、免許獲得および会社設立等に必要な事務を執るため、昭和三四年始頃から武蔵野市吉祥寺二〇二五番地大日産業ビル内に武州鉄道創立事務局(以下武鉄事務局という。)を開設し、当初は大日産業株式会社職員のうち数名を武鉄要員として執務させた。
武鉄事務局は昭和三四年三月一五日頃吉祥寺六七三番地太平信用金庫旧本館二階にさらに同年一〇月一六日頃吉祥寺二七四六番地白雲観光株式会社新社屋二階に事務所を順次に移転した。職員の数は免許手続の進行に伴って逐次増加し、昭和三四年一二月頃は最多数の七十余名に達した。部課の編成はしばしば改変されたが、免許下付となった昭和三六年夏頃までの間はおおむね総務部、用地部、資材部、企画部にわかれ事務局の最も重要な事務である免許手続の推進、関係官庁との連絡その他の対外交渉等は主として総務部次長長田育男がこれに当り、経理関係事務は大日産業株式会社経理部長、久保嘉一郎が兼ねて担当し、これらの事務全般の総括主宰と事務局じたいの運営ならびに免許獲得のための資金調達、関係各方面への陳情等は滝嶋が自らその衝に当るという態勢であった。
武鉄建設計画が具体化するに伴い、滝嶋、平沼らの間で、鉄道用地を確保し、かねて鉄道建設事業による赤字を補填するため別個独立の不動産会社を設立する計画が起り、昭和三四年初頃からその設立準備が開始され、同年三月一〇日所要の登記を完了して白雲観光株式会社(以下白雲観光または白雲という)が設立され、滝嶋がその初代代表取締役社長に就任した。
白雲は授権資本二億円、当初払込額は五千万円であって、武鉄の線路、駅舎等の予定地およびその周辺の土地を買収して武鉄に提供すること、沿線土地の開発、分譲および観光事業を営むこと等を目的とし、土地買収資金十数億円はすべて埼玉銀行からの融資に仰ぐこととされた。かくして白雲は、昭和三四年五月頃から昭和三五年三月頃までの間、合計約一〇億円をもって約四三万坪の土地を買収したが、昭和三五年二月頃以降埼玉銀行からの融資を停止され、その回収を確保するため役員の交代が行われた機会に、滝嶋は社長の地位を退き、白雲は次第に武鉄との一体性を失うに至った。いらい滝嶋は資金的にも苦境に陥り、昭和三五年一二月末白雲役員会の決議に基き、当時の個人的債務合計約二億円を整理するのと引替えに取締役からの退陣をも余儀なくされ、白雲に対する発言権を完全に喪失するに至った。(第三章の特別背任公訴事実は右役員会の決定をめぐる容疑がその内容をなすものである。)
武鉄建設計画の具体化に先だつ昭和三一、二年頃、滝嶋は、武蔵野市吉祥寺にビルを建設し業者に賃貸してデパートを経営させる計画を立て、昭和三二年九月資本金八〇〇万円をもって不動産貸付業およびその付帯事業を目的とする大日産業株式会社(以下大日産業または大日という。)を設立し、自らその代表取締役社長に就任した。大日産業ビルの建設用敷地として吉祥寺二〇二五番地に約二五〇坪を買収し、昭和三三年六月ビルの第一期工事に着手し、同三四年三月落成開店式を挙げて、これを吉祥寺名店会館と名付けた。その後引続き隣接地約二五〇坪を買収し、昭和三五年六月から第二期(増築)工事を施行し、同三六年六月その一部を完成して店舗の拡張を行なった。これに伴い資本金も逐次増加し、昭和三六年八月株式会社丸賀を合併した当時は八、五〇〇万円となった。ビル工事は第一、二期とも太平建設工業株式会社(以下太平建設または太平という。)と契約し、契約工事代金は合計約三億九千余万円に上った。
これら大日の建設資金および運転資金は大部分埼玉銀行からの融資に依存し、その財務・経理は滝嶋が直接掌握していたが、昭和三四年三月以降は久保嘉一郎が経理部長として事務処理に当った。名店会館の経営はもともと滝嶋の固有の事業であり、場所的にも同ビルは武鉄と国鉄中央線との接続点にあたり、当初同ビル内に武鉄の始発駅を設置する計画もあった関係で、前述のように同ビル内に武鉄事務局をおき大日の職員中から武鉄事務局要員を供給したが、また大日の資金中から武鉄免許に要する諸経費、運動費を流用するなどして、大日は滝嶋が武鉄建設計画を推進するについて終始その人的および物的の母体となったのである。
(三) 資金・経理の概要
武鉄免許申請書提出当時の建設資金の予想額は、前示のように概算四一億五千万円であったが、滝嶋の見込みとしては、新設会社の資本金が二〇億円であり、さしあたり免許までに必要な経費はその約一割余およそ二億円ないし三億円程度として、これを同人個人名義で埼玉銀行から借入れて武鉄事務局の所要経費に充当する方針であった。
ところで武鉄事務局においては、経理関係の帳簿、証憑書類の整備が甚だ不十分であって、滝嶋がしばしば大日あるいは白雲から資金を流用した場合の処理も、大日あるいは白雲の武鉄勘定に仮払として記帳され、武鉄事務局において「社長仮払」あるいは「社長引出金」として記帳される程度であった。とくに本件において問題とされる免許運動関係の大口諸費用は、使途を秘匿するため、白雲より流用した分も一旦大日の経理に受入れた上、あるいは大日から太平に建築請負代金として支払ったようにあるいは土地購入の裏金として地主に支払ったように仮装処理された。また社長引出金として支出された比較的少額のものも、滝嶋の放漫な支出に委され、その多くは証憑書類もなく、使途不明のままであった。なお昭和三五年一二月末現在までに支出された武鉄関係資金の概算額を、白雲および大日との関係で示せば、つぎのとおりである。
イ、埼玉銀行からの滝嶋個人借入総額 九三、七五〇、〇〇〇円
ロ、右のうち大日の経費に流用した分 二四、八四〇、〇〇〇円
ハ、大日から武鉄経費に流用した分 五一、六七〇、〇〇〇円
ニ、白雲から武鉄経費に流用した分 一四、〇〇〇、〇〇〇円
ホ、武鉄経費総額(イ、ハ、ニ、の合計よりロを控除) 一三四、五八〇、〇〇〇円
二、地方鉄道免許手続の概要
地方鉄道業を営もうとする者は、起業目論見書、線路予測図、建設費概算書、運送営業上の収支概算書を提出して主務大臣の免許を受けなければならない(地方鉄道法一三条)。そのため免許申請者は運輸大臣宛申請書を鉄道敷設地の所轄陸運局に提出する。陸運局では申請書が所要の形式を具備していればこれを受理し、鉄道部監理課において局長の前覧に供した後、審査用紙を添付して鉄道部の関係課、係に回付し、計算違い、図面の不備等の形式的な点を審査し、所要部分を申請者に補完させた上、申請書正本を陸運局長から運輸大臣あてに進達する。これを「一先ず進達」という。
一先ず進達がなされた後、鉄道部監理課監理係において、主査として指名された担当官が主任となって申請事案の実質的調査をする。右の調査は、事業の収支、原価計算、沿線の状況、資金計画等、部内通達に定められた事項につき、それぞれに定められた基準に従って行われ、必要に応じて申請者から事情を聴取し、また現地調査、聴問会等も行なう。かくして蒐集した資料に基き、陸運局独自の立場で建設費、収支見積り等を算定し、申請者の資産、信用、熱意等を判定した上、免許の可否に関する意見を記載した調査意見書を作成し、資料を添付して陸運局長から運輸大臣あてに追申する。これを副申という。
陸運局から一先ず進達された申請書類は、運輸省(以下本省ともいう。)の所管課である鉄道監督局民営鉄道部(以下それぞれ鉄監局、民鉄部という。)監理課の担当で関係各課、民鉄部長、鉄監局長に供覧され、局長から次官、大臣にも口頭で説明される。副申書類も右と同様に供覧された後、監理課において調査が行われる。この調査は陸運局から進達された資料の再検討を中心とする書面審査で、本省じたいとしては特別の調査をせず、必要があれば疑問点につき陸運局の担当者あるいは申請者から事情を聴取することもある。調査が終了した後、鉄監局長、民鉄部長、監理課長の協議により運輸審議会(以下運審という。)への諮問が立案され、局長から次官、大臣に禀議して決裁を得た上、大臣から運審あてに文書をもって諮問される。もっとも、運審が本省職員の説明を聴取した上軽微事案と判定したものについては、大臣は諮問を経ないで免許することができる(運輸省設置法六条二項)。
運審においては、大臣から諮問を受けると、その事案の件名に番号を付して運輸審議会件名表に登載し、大臣名でその旨を告示する(運輸審議会一般規則一五、一六条)。件名表に登載された事案は、運審の審理に付される。運審は、必要があれば、本省から各資料の提供を求め、また本省関係官の出席を求めて説明を聴取するが、さらに必要と認めるときは、公務所、関係事業者に照会し、調査を嘱託し、または報告を徴することができるが(運輸省設置法一七条)、現地調査などは原則として行わない。運審の審理は公聴会を開催しまたは聴問会により、あるいは単なる書面審理によることができる。公聴会は大臣の指示または前記告示の日から一四日以内に利害関係人からの申立があった場合には、開催しなければならず、また運審が必要と認めた場合には、開催することができるが、大臣の指示も利害関係人の申立もない場合で運審が不必要と認めるときは、公聴会を行わず、当該申請事案の申請書類等関係官庁の提供する資料によって事実の審理をすることができる(運輸審議会一般規則一九条)。
運審は、審理が終了すれば、自由な心証によって事実を判断して免許の可否を決定し、答申案を起案し、各委員の決裁を経て運審会長名で大臣あてに答申する。右答申の結果については鉄監局長から大臣に報告され、大臣は答申を参酌し且つこれを尊重して免許の可否を決定し、免許あるいは却下の決裁をするのである。
三、武州鉄道免許手続の経過
武鉄免許申請書は前記のとおり昭和三四年一月一四日に東京陸運局(以下東陸という)に提出されたが、申請当初の東陸監理課における武鉄事案担当者(主査)は監理係運輸事務官吉崎博美であった。武鉄事務局の長田育男は滝嶋の命により、申請書提出後連日のように東陸に足を運び、主として右吉崎および監理係長土屋静に面接して手続の概要を承合し、資料の数字や沿線の事情等につき説明し、書類の不備を訂正補充し、免許手続の促進を依頼するところがあった。同年一月末ごろ、滝嶋から日本交通技術株式会社に依頼して沿線の測量を開始する一方、小田原急行電鉄株式会社の基礎資料をも参考にして、沿線の事情、工事概算、収支概算、および運輸数量等に関する基礎資料を作成し同年三月下旬から四月中旬にわたって逐次東陸に提出した。
これに先立ち、免許申請書は同年一月三〇日本省へ一先ず進達されたが、当時東陸では他にも免許申請案が累積しており、受理の順序に従って審査に入るたてまえであったため、武鉄事案は本格的な実質審査に着手されないまま時日を経過しているうち、吉崎は同年三月一五日付をもって東陸鉄道部業務課財務係に配置換となり、従前からの監理課監理係運輸事務官浅井盛夫が後任の武鉄事案担当者となった。浅井は上司の命により、西武鉄道吾野・西武秩父間敷設の免許申請事案(以下西武事案という)。の調査を一応終了した同年五月初頃から急ぎ武鉄事案の実質調査に着手することとなった。ところで右西武事案は昭和三二年一二月申請が受理されながら、資金計画が未提出であったため、調査が延引されていたもので、武鉄事案と関連する事案であったため、東陸では両者を竝行的に調査し同時に本省に副申する方針とし、加えて武鉄事務局からの促進の要望もあったので、浅井としては事務の進捗をはかるため、同年五月中旬頃からは、武鉄が特約した都内港区芝田村町所在の旅館光陽館の部屋を利用し、武鉄事務局の者と協議し、資料作成に助言を与え、また自ら所要の事務を執るなどのこともあった。
東陸においては同年七月二三日に聴問会が、同月三〇、三一日は担当官の現地調査がそれぞれ行われ、その結果に基いて、浅井の手許で調査意見書原案が作成され、部内審議の上同年九月二二日付をもって西武事案とともに本省あての副申がなされた。右副申された東陸局長の意見は、
申請線建設資金は、申請者の建設費を大巾に上廻る多額を要するものと予想され、しかも本事業の成否は、年間約一〇〇万屯の貨物輸送量の確保と沿線開発に伴う住宅建設計画のいかんにあると思料されるが、本申請線の敷設により沿線の住民に利便を与え、発展に貢献するものと思われるので宜しく審議決定されたい。
との趣旨のものであった。
滝嶋は免許申請書の提出いらい、主として長田をして東陸との事務的折衝を通じて審査手続の進捗を図るべく尽力せしめる一方、自ら関係の政、財界および運輸省上層部に免許獲得のための運動をこころみつつあった。すなわち、運輸大臣、運輸次官らに対し、発起人、沿線市町村長らとともに面接し、武鉄建設計画の内容を説明して免許方を陳情したほか、昭和三四年四月中旬金一千万円を、同年七月下旬金五〇〇万円をいずれも大映株式会社社長永田雅一に対し、関係政財界方面への運動費に充てるよう交付し、同年六月十八日被告人楢橋渡が運輸大臣に就任してからは、同人に接近して運動を続けたこと、次節以下に明らかにするとおりである。
東陸から武鉄事案の副申を受けた本省では、鉄監局民鉄部監理課において調査意見書を検討し、運審委員に対し監理課長から事案の内容を説明したところ、運審としては、西武事案とともに重要事案且つ関連事案として審理する旨の認定をしたので、同年一一月二一日付をもって、楢橋運輸大臣から運審あてに両事案を一括して諮問する手続がとられた。
昭和三四年一二月三日武鉄事案および西武事案はともに件名表に登載され、その旨運輸大臣より告示された。そして右告示後一四日間の法定期間内に利害関係人からの公聴会開催の申出もなく期間が満了した。一二月一〇日の運審期日に両事案について第一回の審理が行われ、原局から鉄監局長、民鉄部長、監理課長が出席して申請の概要と理由とを説明した上、早期決定を要望したが、その頃から翌年一月頃にかけて民鉄部長、監理課長から運審委員を個々に訪問して公聴会を早期に開催されたい趣旨の申入れがなされた。右の申入れは楢橋から山内鉄監局長に対する指示に基いていたことは後述のとおりである。
昭和三五年二月三日に至り、西武鉄道株式会社社長小島正治郎から楢橋運輸大臣および中島運審会長にあて、武鉄事案に対する反対陳情書が提出された。あたかもその頃武鉄事業の最も有力な支持者であった平沼が滝嶋に対して不信の念を抱き、後述のような経緯(第三章第二節三参照)から、武鉄関係事業から手を引き融資をも停止するとの意向を示し、四月二七日には滝嶋総代に武鉄発起人辞任届を提出して武鉄建設計画と絶縁するに至った。他方、運審内部においては、同年一月一二日の審議会で職権公聴会を開催すべきか否かについて議論が出て、おおむね開催の方向にきまったものの、武鉄事業が成り立ち得るか否かも相当の問題であり、発起人団の財政能力についても調査を要するなどの意見もあって、慎重審理の方針をとり、ようやく同年四月二六日になって、西武および武鉄の公聴会を五月一六日に開催する旨が公示された。公聴会は五月一六、一七の両日にわたって開催されたが、結論的には武鉄建設費の過少見積り、資金計画の不安定等の問題点が指摘され、武鉄事務局側としては武鉄建設計画そのものに対する運審委員の理解が甚しく不足であるとの印象を受けた。
公聴会後の情勢としては、とくに平沼の武鉄脱退により、運審および本省部内において、滝嶋の資力、信用に危惧の念を抱き、武鉄免許に対してかなり批判的な空気が増大するに至った。そのため運審においては、武鉄事案について容易に結論が出ず、公聴会終了後の審理は事実上停頓状態となった。
これらの情勢に鑑み、滝嶋は、武鉄事務局の部下に命じて各運審委員を戸別に訪問して、説得、陳情の工作を行わせ、自ら運審委員に陳情し、さらに楢橋をその自宅に訪問して早期免許の実現を要望したのであるが、本省事務当局も、滝嶋が発起人総代であるかぎりは、免許は困難であるとの意向をもち、楢橋もその状況を察知して、滝嶋に対して暗に総代交替を勧告したまま、同年七月大臣を退任するに至った。
以上の経過から滝嶋はその後冨永に総代を譲り(昭和三六年三月一六日)、間もなく同人も辞任して小笠原三九郎、佐々木義彦、横川重次の三名が代表となり(同年五月一日)、武鉄免許促進の陳情を続けた結果、運審および運輸省当局の武鉄に対する信頼も著しく向上するに至った。前述の西武事案については、分離して審理された結果、同年二月二五日をもって免許となったのに対し、武鉄事案については、同年六月二七日の審議会において再び審理が行われ、同年七月六日免許を適当と認める答申がなされた結果同月一一日付をもって木暮運輸大臣名義で武鉄申請事案に対する免許状が下付されたのである。
第二節 認定事実(各論)
一、被告人滝嶋、同楢橋の経歴および職務権限
滝嶋は昭和一六年早稲田大学専門部政経科を卒業して軍務に服し、終戦後は復員省兵器処理委員会に関係し、主として東京都立川地区でスクラップの払下げ、販売等に従事し、横田基地周辺の米軍用宿舎の建設、賃貸等をも業としていたが、その後前記のように大日産業株式会社、白雲観光株式会社等を設立していずれも取締役社長となり、かたわら武鉄建設計画を推進し、発起人総代または事実上の代表者としてその免許獲得に主力を注ぎ、昭和三六年七月一一日運輸大臣からその免許を受けたものである。
楢橋は大正十一年中央大学を中途退学した後、大正一五年から昭和三年までフランスのリオンおよびソルボンヌ各大学に留学したが、その間弁護士となり、昭和六年から昭和一四年まで東京市仏貨公債訴訟事件の東京市代理人として訴訟活動に従事し、昭和一七年いらい政界に入り、郷里福岡県第三区を選挙区として衆議院議員選挙に立候補し、今日まで六回当選を重ね、終戦後の幣原内閣では法制局長官、内閣書記官長、国務大臣等に就任し、同内閣の総辞職後は国民民主党最高委員となり、自由民主党発足後は同党に属して今日に至り、その間昭和三四年六月一八日から昭和三五年七月一九日まで岸内閣の運輸大臣の地位にあって、地方鉄道の免許ならびに同免許について運輸審議会に諮問することを含む運輸省所管事項の全般に関する事務を統轄し、職員の服務についてこれを統督する職務権限を有していたものである。
二、請託関係
(一) 日本工業クラブにおける依頼
滝嶋は、前述のように、武鉄建設計画について当初から冨永に相談していたところ、冨永は運輸大臣に就任した楢橋とは旧知の間柄であったので、滝嶋は冨永を通じて楢橋に接近することを考え、同人に紹介を依頼し、冨永もまた武鉄建設計画に大いに共鳴してこれに協力する態度をとっていたので、滝嶋のため斡旋の労をとり、昭和三四年一〇月三日頃千代田区丸の内日本工業クラブにおいて滝嶋を楢橋に紹介した。その席上、滝嶋は楢橋に対し武鉄建設計画の概要を説明して早期に免許されたい旨を依頼し、同時に冨永からも楢橋に対し、滝嶋を支援する趣旨で、武鉄建設の必要性を説いて急ぎ免許されたい旨を申し入れ、楢橋は右両名の依頼の趣旨を諒解し、事務当局と相談の上手続を進める旨を答えた。
(二) 沿線視察
日本工業クラブにおけける前述の会談の際、冨永から楢橋に対し、武鉄沿線予定地にあたる名栗を視察するように勧めたところ、楢橋は、武鉄建設計画の有力な支持者である平沼が名栗において自ら仏像を彫り、鳥居観音の堂宇を造営していることを聞き、かねて参詣したいと望んでいたこともあって、右の勧めに従い現地に行くことを約束した。滝嶋、冨永の両名は平沼とも連絡の上、表面は平沼が楢橋を名栗に招待する形式をとったが、真の意図は滝嶋が武鉄建設計画について楢橋に依頼してその認識を深め免許の獲得を有利ならしめるにあったのである。
そこで昭和三四年一〇月一一日朝滝嶋は楢橋をその自宅まで出迎え、同人と同車の上、吉祥寺を経由し、途中武鉄沿線を案内しながら箱根ヶ崎、豊岡町を経て名栗に赴き、楢橋は現地に出迎えた平沼、僧侶の高橋忠雄らの案内で鳥居観音に参詣し、境域を散策し、見学した。帰途、滝嶋が楢橋を福生町の自宅に案内し、軸、置物等を供覧した。同日の視察の結果、楢橋は武鉄建設計画についての滝嶋の依頼の趣旨を諒承し、滝嶋に対し、「地方の産業と都心とを結ぶに絶好の企画である、本来ならば政府で実施したいほどであるが、これを民間の力で実現するのは結構なことである」旨を述べ、大いに賛意を表した。
同年一一月一日、楢橋は事務当局の幹部を帯同して再度武鉄沿線の視察を行った。同日は鉄監局長山内公猷、民鉄部長石井健、同部監理課長蜂須賀国雄、東陸鉄道部長揖場幹および楢橋の秘書官二名が随行し、武鉄側からは滝嶋と長田が途中の三鷹駅に出迎えて同行した。一行は武鉄予定路線に沿って青梅市に入り、右折して飯能市を経、名栗に到着し、平沼の案内で参詣、散策し、滝嶋、平沼から楢橋らに対し武鉄建設計画に関連して県内や名栗の実情を説明した。滝嶋、平沼らは現地に留まり、一行は帰途に就いたが、楢橋が一行を慰労する意味で新宿の料亭玄海に立ち寄って夕食をともにした。
(三) 民吉会合
前記二回にわたる沿線視察によって楢橋が武鉄建設計画に深い理解と積極的態度を示したので、滝嶋はその直後頃から、この際楢橋に対し武鉄発起人らの熱意を示してさらに陳情し、免許の早期実現のため楢橋の好意と尽力を得たいと考えた。そこで中央区築地四丁目一二番地料亭民吉に宴席を設けて楢橋を招待することを計画し、以下のように三回にわたって会合を行なった(以下民吉会合という)。
第一回民吉会合は昭和三四年一一月一〇日、楢橋の沿線視察に対する慰労と感謝の趣旨をも含めて行われ、楢橋、滝嶋のほか、いずれも当時武鉄発起人であった冨永、平沼、三宮吾郎、永井房太郎および昭和三五年一月以降発起人となった菊池寛実が出席した。席上滝嶋は楢橋に対し、武鉄発起人の主だった者が集まっている旨を告げ、初対面の三宮および永井を楢橋に紹介した。第二回民吉会合は同年一二月一〇日、第三回民吉会合は昭和三五年一月一二日、いずれもほぼ同じ顔ぶれ(平沼を除く。)で行われ、楢橋が主賓として招待されて出席した。右三回を通じ、会談の内容はほとんど雑談に終始したが、きわめて簡単ながら沿線視察や武鉄建設計画の点に触れた会話もあり、楢橋も前記の如きこの会合の趣旨を諒知した上、滝嶋に対し、少なからず信頼感を抱いてその計画を支持し、免許に関してもできる限り考慮したいとの心境から、「平沼さんが中心になっているし、この路線はよいと思う。」「招来甚だ有望な路線であると思う。なぜ今まで計画する人がいなかったか不思議なくらいだ。」「できる限り考えよう。」等と発言したほどである。
(四) 楢橋宅における依頼
滝嶋は前記のように楢橋と初対面していらい、武鉄の件に関して冨永とともに運輸省大臣室に楢橋を訪ねたことが二、三回あった。昭和三四年一〇月下旬頃には、楢橋は滝嶋に対し、「君は運輸省の役人や運審にはあまり顔を出すな。計画そのもので行くのだ。」との意味のことを話したことから、滝嶋は、これは楢橋が自分に一任せよとの意向であると考え、運動の目標をもっぱら楢橋に指向し、その頃から同年末ごろにかけてしばしば、港区麻布三河台町七の一一楢橋方自宅を訪ねて、年内に免許を出されたい旨しきりに懇請した。また、昭和三五年二月初め西武鉄道側から反対陳情の文書が提出されたので、滝嶋はその後の免許手続の経過を楢橋に問合わせるため連絡したところ、楢橋から忙しいから朝食でもしながら話そうといわれ、同月五日から同年五月上旬頃までの間、数回にわたって、早朝楢橋の右自宅を訪ね、楢橋にその後の経過を聞きただし、手続の促進を陳情し、今後もいっそうよろしく、と依頼した。楢橋はこれに対して、「まああまり焦るな。」などと言って宥めたこともあった。
(五) 請託を受けた事実
楢橋は昭和三四年六月運輸大臣に就任後二、三ヵ月を経ない頃、永田と面談したことがあったが、永田はかねて滝嶋から、武鉄免許の実現につき然るべく運動されたい旨依頼を受けていたので、右面談の機会に楢橋に対し、滝嶋から武鉄免許申請書が提出されている旨を話した。楢橋はその直後山内鉄監局長に確かめて、右事案が正式に受理されていることを諒知したのであるが、同年一〇月三日頃以後、前記(一)ないし(四)の如き一連の滝嶋の請託行為に対し、それぞれ前認定のようにその請託の趣旨を諒承して応待したほか、昭和三四年一二月ないし翌三五年一月頃運輸大臣として部下の山内鉄監局長に対し、武鉄の公聴会を、早く開催するようにと、滝嶋の請託の趣旨に添う指示督励をした。山内は石井民鉄部長と蜂須賀監理課長にその旨を伝え、運審委員にも伝達して武鉄公聴会だけでも早くするよう申し入れるべき旨を指示した。よって石井、蜂須賀両名は運審委員を戸別に訪問して右の旨の申し入れをしたことは、第一節三にも述べたとおりである。また楢橋は昭和三五年六月下旬頃運審会長青柳一郎に対し、武鉄事案に関して直接、「もう公聴会も済んだし、早く答申できないか。」と、運審としての結論を催促する趣旨の申入れを行なった。青柳はこれに対し、なお問題点があるので十分審理しなければならない旨を答えたのである。
三、賄賂の約束および金員の授受
(一) 賄賂の約束
滝嶋は、前記のとおり、日本工業クラブにおける会談、楢橋の沿線視察等を通じて楢橋が武鉄建設計画に全面的な賛意を表し且つ非常な好意を抱いていることを知って感銘し、また、昭和三四年一一月一〇日には同人が多忙な政務の余暇を割いて第一回民吉会合に出席してくれたので、その頃から、楢橋の運輸大臣在任中に同人の手によって免許が実現することを強く期待し、そのため一層の配慮と盛力を得たく、その謝礼とする趣旨で金員を供与することを決意するに至った。そこで滝嶋は同月一二日楢橋の前記自宅を訪ねて同人に対し、「民吉会合に出席した人たち財界の有志で政治献金を差上げたい。一人一〇〇万円ずつ集め、とりあえず三〇〇万円を持参するが、今後毎月三〇〇万円ずつ献金したい。」旨を述べ、政治献金の名の下に金員の供与方を申し入れたところ、楢橋は右滝嶋のいう政治献金が前記のような武鉄免許に関する請託の謝礼の趣旨に出るものであることを知りながら、これを受領することを承諾した。そして楢橋は妻文子に対し、滝嶋が金員を持参したら受取っておくようと指示した。
(二) 現金合計二、四五〇万円の供与
第一回
滝嶋は昭和三四年一一月一四日頃武鉄事務局の経理担当者である久保嘉一郎に現金三〇〇万円の用意を命じ、同人が大日振出しの小切手によって埼玉銀行(以下埼銀と略称する。)東京支店で払戻しを受けた現金三〇〇万円を同人から受取った。そこで滝嶋は同日楢橋の前記自宅を訪ね、同所において同人の妻文子に対し、「大臣の経倫に深く感動しています。貧者の一灯を持参しました。今後はできる限り毎月持って来たいと思います。」との言葉を添えて、前記の趣旨で右金三〇〇万円を交付した。
第二回
滝嶋は同年一二月一五日頃久保に現金一千万円の用意を命じたので、久保は五〇〇万円を大日振出しの小切手によって埼銀立川支店の当座預金から払戻し、残りの五〇〇万円については白雲の常務取締役宮沢庚子生から借受けた小切手を埼銀東京支店で現金化して、以上の合計一千万円を滝嶋に渡した。滝嶋は同日楢橋の前記自宅を訪ね、同所において文子に対し、「今回は年末だから増額します。」旨の言葉を添えて、前記の趣旨で右金一千万円を交付した。
第三回
滝嶋は昭和三五年一月一八日頃久保に現金三〇〇万円の用意を命じたので、久保は白雲の宮沢から借受けた小切手を埼銀立川支店で現金化して、金三〇〇万円を滝嶋に渡した。滝嶋は翌一月一九日頃楢橋の前記自宅を訪ね、同所において文子に対し簡単な挨拶を述べ、前記の趣旨で右金三〇〇万円を交付した。
第四回
滝嶋は同年二月一二日頃久保に現金三五〇万円の用意を命じたので、久保は埼銀立川支店の大日名義六〇〇万円の通知預金を解約し、内三五〇万円を現金化して滝嶋に渡した。滝嶋は同日楢橋の前記自宅を訪ね、同所において文子に対し簡単な挨拶とともに「今月分です。」といって前記の趣旨で右金三五〇万円を交付した。
第五回
滝嶋は同年五月一二日頃、あらかじめ不二サッシ工業株式会社取締役社長佐野友二の諒解を得ておき、久保に命じて同社振出しの金六〇〇万円の小切手を自己の株式を担保に借受けさせ、内五〇〇万円を現金化して用意させた。滝嶋は金五〇〇万円を久保から受取り、翌五月一三日頃楢橋の前記自宅を訪ね、同所において文子に対し「いつもの物です。」といって、前記の趣旨で右金五〇〇万円を交付した。
よって滝嶋は文子をしてそれぞれその頃右各現金を楢橋に取次ぎ交付させ、もって同人に対しその職務に関して賄賂を供与した。
(三) 現金合計二、四五〇万円の収受
楢橋は前記(二)の各月日頃右各現金がいずれも滝嶋から前記の趣旨で供与されるものであることを知りながら、前記自宅において文子を介してこれを受領し、もってそれぞれ自己の職務に関し請託を受けて賄賂を収受したものである。
第三節 証拠の標目≪省略≫
第四節 被告人、弁護人らの重要な主張とこれに対する判断
一、被告人楢橋の運輸大臣としての職務権限について
楢橋の弁護人は、仮りに滝嶋、楢橋間に五回にわたり本件の金銭授受が行われたとしても、その時期においては楢橋は武鉄免許に関する職務権限を有しなかった、と主張する。その理由の要旨は、「運輸大臣が地方鉄道の免許を決定するには運審に諮問しその答申をまってすべきことは運輸省設置法六条の規定するところである。しかも運審は運輸大臣の所掌事務から独立した行政機関であり、大臣や原局の意向にかかわりなく独自の権限に基き公正な決定をなすべきであって、運輸大臣といえども運審を指揮監督することはできない。したがって運輸大臣は、運審への諮問前はもとより、諮問後も答申があるまでは免許の決定権を行使できる段階ではなく、あえて行使するもそれは法律上無効であるから、その期間、運輸大臣は免許の職務権限を有しない。」というのである。
ところで、運審は国家行政組織法八条によって運輸省に設置された諮問機関であって、運輸大臣の諮問に応じて意見を答申し、また一定の場合には自発的に意見を述べるが、これら意見は決定権者である運輸大臣の参考意見であるに止まり、何ら決定権者を拘束するものではない。以上のことは、国家行政組織法、運輸省設置法、運輸審議会一般規則その他関係法令の解釈上明らかなところである。そして運審はまた、いわゆる審議会としての性格上原局(運輸省)の各局から独立した権能をもち、運輸大臣は運審の答申をできるだけ尊重しなければならないことも、運輸省設置法六条、二〇条等に規定されている。しかし同時に、運輸行政の円滑を図るため運審と原局との間の連絡調整も必要であって、このため組織上、運用上多くの規定が設けられており、例えば、運審委員七名のうち一名は運輸事務次官をもって充て(運輸省設置法八条)、大臣官房および関係各局の長は、必要があると認めるときは運審に対しその所掌事務に関し意見を述べることができ、また運審の要求があるときは必要な資料を提出しなければならない(同法二〇条)。そして、右にいわゆる大臣官房および各局は、運輸大臣を長とする運輸省の所掌事務を遂行するための内部部局である(国家行政組織法五条、七条、一〇条)。したがって、少なくとも右に掲げた範囲においては運輸大臣の職務権限は大臣官房および各局の長を通じて運審にも及ぶものというべきであり、現実にも運審の審理決定が大臣、原局の意向によって手続的にも実体的にも左右される実情にあることは≪証拠省略≫によっても明らかにこれを認めることができる。
以上の諸点にかんがみれば、地方鉄道の免許事案に関する運輸大臣の権限と運審の権限とはそれぞれ制度的な目的・内容を異にしており、特定事案について運輸大臣の権限じたいが運審の権限によって限定・変更されることはないと解するのが相当である。まして運輸大臣の権限は前記の範囲において運審にも及ぶのであるから、特定事案の諮問前または諮問による運審の審理手続の進行中であっても、運輸大臣が当該事案について免許に関する職務権限を有しないと解することはできない。
運輸大臣は、運審に諮問した地方鉄道免許事案については、その答申手続の終了をまって免許の可否を決定するのを通常とすることは、第一節二に判示したところと、関係証拠によって明らかである。けれども、右は、前記のような、運輸大臣が運審の答申をできるだけ尊重しなければならないという法のたてまえから、事実上そのような手続を履践しているにすぎないのであって、もとよりそれがため、運輸大臣にその間免許の権限がないと解すべき理由とはならないのである。
本件において武鉄事案は前認定のように昭和三四年一一月二一日に運審への諮問手続がなされ、昭和三五年七月六日に答申がなされており、滝嶋、楢橋間の金銭授受はすべて右答申以前のことではあるけれども、以上に説示したところにより、楢橋はその当時形式的にも実質的にも武鉄免許に関する職務権限を有していたことは、まことに明らかといわなければならない。これに反する弁護人の前記主張は独自の見解にすぎず、これを採用することができない。
二、請託関係について≪省略≫
三、金員の授受について≪省略≫
四、賄賂性の認識について≪省略≫
第二章 東京陸運局関係贈収賄≪省略≫
第三章 商法違反(特別背任)
第一節 序論
本件公訴事実の要旨は
被告人丹沢善利は昭和三五年四月一二日白雲観光株式会社取締役社長に就任し、爾来同社の業務を統轄していた者、被告人宮沢庚子生は昭和三四年三月一〇日同社設立いらい常務取締役として社長を補佐し会社業務を分掌していた者、被告人滝嶋総一郎および同菊池寛実は昭和三五年四月一二日以降同社取締役としてその業務執行の意思決定に参与していた者、被告人平沼弥太郎は株式会社埼玉銀行代表取締役であるが、埼玉銀行から滝嶋個人に貸付けた九、二〇七万円の債権の回収が昭和三五年四月以降きわめて困難となったためこれを苦慮した平沼から菊池、丹沢に債権回収の協力方を懇請したところ、ここに丹沢、菊池、滝嶋、宮沢は平沼と順次共謀の上、白雲の取締役として善良なる管理者の注意義務をもってその職務を忠実に遂行すべき任務に背き、右埼銀および滝嶋の利益を図る目的で、昭和三五年一二月二八日頃、東京都中央区京橋一丁目四番地所在埼玉銀行東京本部において、白雲の取締役会を開催し、丹沢主宰のもとに、滝嶋所有の東京都西多摩郡福生町熊川字武蔵野一〇九一番の一宅地一九二坪等合計一二筆の土地(時価約三、九一〇万円相当)を白雲が買受けた上その代金をもって前記債務を埼銀に返済すべきことを条件として九、二〇七万円で買受ける旨の決議をなし、宮沢はその決議に従い昭和三五年一二月三〇日頃埼銀立川支店において白雲と滝嶋との間に右決議と同旨の売買契約をなし、昭和三六年三月九日同所で同人に対し代金九、二〇七万円を支払い、よって白雲に対し差額約五、二九七万円相当の損害を加えた
というのである。
本件においては、昭和三五年一二月二八日頃の白雲役員会において行われた一連の決議とそれに基く処置のうち、白雲が滝嶋所有の一二筆の不動産を時価を超える価格で買受けたとの点が、被告人ら(平沼を除く)の白雲取締役としての任務に背き且つ白雲に対し買取価格と時価との差額に相当する損害を与えた、というのが検察官の主張の骨子をなしている。これに対して被告人らは、自己がそれぞれの役職にあったこと、その頃白雲の役員会が開催され滝嶋所有不動産の売買が決議されたことはいずれも認め、その余の、検察官主張の背任要件事実はほとんど全面的にこれを争い、とくに被告人らの背任の犯意ならびに白雲に対して損害を生ぜしめた事実を強く否認しているのである。
ところで当裁判所は、本件の犯罪の成否を審究するに当っては、右役員会における一連の決議事項の内容を、証拠によって、その会議の構成員の意思解釈として総合的に確定することが最大の要件になるものと考える。そして、決議内容を確定するためには、右役員会がいかなる立場の人々によっていかなる目的意図のもとに行われたかを究明すること、さらにその前提として、右役員会開催に至るまでの客観的な基礎的事実関係を明らかにすることが必要である。よって以下第二節において、本件の背景となる重要な基本的事実関係を証拠に基いて解明し、第三節において役員会当時被告人宮沢、菊池、丹沢がそれぞれいかなる立場にあっていかなる目的のもとに行動したかを、主として特別背任罪の構成要件に照らして検討し、第四節以下において役員会開催の直接の動機と議事の模様とから決議事項の客観的内容とその事実上ならびに法律上の意義を検討することとする。そして最後に、これらによって得た結論に基いて、決議に参与した被告人らの意思を探究することによって、本件特別背任罪の成否ないし犯罪としての証明の有無を明らかにするであろう。
第二節 基本的事実関係
一、白雲観光株式会社と埼玉銀行との密接な関係
関係の証拠によって認められる、白雲の設立の趣旨および発足に至るまでの経緯は第一章第一節一(二)に認定したとおりである。そこで、白雲と埼銀との関係について証拠を検討してみると
≪証拠省略≫を総合すれば、つぎの事実が認められる。
白雲の資本金は、発足当時五千万円一〇万株であって、その資本構成は次表のとおりであった。
株主名 所有株数 額面合計
滝嶋総一郎 二〇、〇〇〇 一千万円
内田柱一郎(平沼弥太郎女婿) 五、〇〇〇 二五〇万円
新光不動産株式会社(代表者内田柱一郎) 五、〇〇〇 二五〇万円
永井勝郎(内田柱一郎所有の名義株) 一〇、〇〇〇 五〇〇万円
株式会社埼玉銀行(代表者平沼弥太郎) 一〇、〇〇〇 五〇〇万円
武州商事株式会社(代表者佐野友二、但し昭和三五年五月からは島崎貞雄) 六、〇〇〇 三〇〇万円
宮沢庚子生(元埼銀取締役人事部長) 四、〇〇〇 二〇〇万円
平沼邦彦(平沼弥太郎長男) 四、〇〇〇 二〇〇万円
大栄不動産株式会社(代表者大川鉄雄) 三〇、〇〇〇 一、五〇〇万円
不二サッシ工業株式会社(代表者佐野友二) 六、〇〇〇 三〇〇万円
合計 一〇万株 五千万円
右株主のうち、武州商事株式会社、新光不動産株式会社、大栄不動産株式会社はいずれも埼玉銀行の傍系会社であり、大川鉄雄、佐野友二はいずれも埼銀と密接な関係のある後援者であるから、株式は滝嶋所有分を除いてすべて埼銀系の株主により占められていたことになる。白雲の最大の事業目的である武鉄沿線の土地買収のためには当初一五億円の資金を予定し、内五億円は滝嶋が個人で調達する旨を埼銀に申し入れたこともあったが、結局は全面的に埼銀からの融資に仰ぐ方針によらざるを得なかった。埼銀側としては、主として回収の安全を図る見地から、約五億円を限度として直接融資し、その余は埼銀の系列会社を通じての間接融資によるとの方針であった。
白雲の経営陣は、内田桂一郎、宮沢庚子生がいずれも常務取締役に、大川鉄雄、永井勝郎、山田忍三、佐野友二がいずれも取締役に、平沼邦彦、桐木光三がいずれも監査役にそれぞれ選任されたが、右のうち宮沢、桐木はいずれも埼銀をら派遣されたものであり、その他の役員もすべて埼銀の系統に属する人々であった。そして、内田は主として不動産買収関係、宮沢は主として経理関係を担当し、この両名によって経営面においても埼銀側の意向を強く反映せしめ、とくに資金の運用に遺憾なきを期するような態勢がとられた。したがって、滝嶋は、創立時から昭和三五年四月まで代表取締役社長ではあったが、その間武鉄免許獲得に主力を注いだ関係もあって、白雲の運営は必らずしも専行せず日常事務はほとんど内田、宮沢が遂行し、会社の実権はむしろこの両名にあって、役員会も最初から埼銀系の勢力によって操縦されていた。かくして、白雲は見方によれば「埼銀やその系列の大株主のひもがついていて、とても社長の責任で仕事のできる会社ではなかった」(証人中野譲の当公判廷における証言)のである。
白雲は昭和三四年五月頃から同三五年三月頃までの間に合計約四三万坪の土地を契約額約一〇億円で買収したのであるが、後述のような理由で昭和三五年二月頃以降埼銀の融資を停止され、その回収を確保するために役員の交代が行われた。このことによって、武鉄建設への協力を標榜していた白雲は、やがて独自の目的と採算とに徹する単なる不動産会社となり、さらには埼銀の債権確保にも奉仕せざるを得ないようになった。
すなわち、右役員交代は後述の如く、菊池ら世話人会が平沼から一任された滝嶋問題処理の第一着手として行われたもので、昭和三五年四月一二日の白雲の臨時株主総会において、取締役大川鉄雄、監査役平沼邦彦、同桐木光三がいずれも退任し、新たに菊池寛実、丹沢善利、小佐野賢治が取締役に、永田雅一、飯塚孝司が監査役にそれぞれ就任し、また同日の役員会で滝嶋は代表取締役社長を辞任し、丹沢がこれに代って代表取締役となった。これによって白雲の経営陣は、単に人的系列においてのみでなく、後述の如き事情とあいまって、さらに埼銀色を徹底させることになった。かくしてこの時いらいの埼銀の考え方として、「白雲がよくなれば銀行も助かる、買収土地を売却処分しその代金で融資回収を図らねばならぬ……そのため白雲は武鉄とは別個に存続させる。」(秋元順朝証言)との基本線が固められたのである。
その後滝嶋関係債権の状況は、融資停止のままさしたる変化もなく昭和三五年一二月に入った。そして同月現在における白雲の借入金総額は約一一億円弱でそのほとんど全部が埼銀よりの債務であったが、買収土地の値上りも著しく、現実資産は約一六億円、含み資産は約六億円と概算されていた。
二、埼玉銀行の滝嶋関係融資の概況
埼銀は、滝嶋の武鉄建設関係経費については同人個人名義で、白雲、大日、丸賀の事業資金については各会社に対して、それぞれ融資を行なってきたが、これらの融資は昭和三五年二月頃を転機として原則として停止され、爾後回収の方針がとられたことはすでに述べたとおりである。
ところで≪証拠省略≫を総合すれば、つぎの事実が認められる。
埼銀としては、滝嶋関係融資を停止した後、個人貸与分について同人所有の不動産八筆を追加担保として差入れさせた程度で、回収のためさし迫って強硬手段をとることもなく経過していたが、昭和三五年一一、一二月頃になって平沼頭取あるいは秋元副頭取から担当者に指示して、滝嶋関係債権に対する銀行独自の回収案が作成された。すなわち、滝嶋、大日、丸賀、白雲関係債務を一括整理するため、担保不動産競売方法によるものと、示談による解決方法との二本建てによる基本方針が、当時の審査統轄二課長福田冨一の手許で立案され、常務会に提出、検討されたのであるが、埼銀としてはこれを実行に移すことはなく、基本的には菊池ら世話人会の適切な処理に期待していたのである。昭和三五年一二月末現在における、滝嶋関係債権の概要はつぎのとおりである。
(下段は主要使途を示す)
滝嶋個人分
無担保手形貸付 七五、〇七〇、〇〇〇円 武鉄測量機械購入その他
預金担保手形貸付 一二、九八〇、〇〇〇円 武鉄創立事務局経常費
不動産担保手形貸付 一八、五〇〇、〇〇〇円 測量費航空写真代事務所工事代雑費
合計 一〇六、五五〇、〇〇〇円
白雲観光分
無担保手形貸付 四五三、三九五、〇〇〇円
支払承諾 九〇、〇〇〇、〇〇〇円
間接融資 六四八、二〇〇、〇〇〇円
(内訳) 大栄不動産株式会社 三〇〇、〇〇〇、〇〇〇円
国際不動産株式会社 六九、二〇〇、〇〇〇円
不二サッシ工業株式会社 九四、〇〇〇、〇〇〇円
冨士倉庫株式会社 九五、〇〇〇、〇〇〇円
丹沢善利 九〇、〇〇〇、〇〇〇円
合計 一、二九一、五九五、〇〇〇円
大日産業分
無担保手形貸付 九〇、六〇〇、〇〇〇円 名店会館建築費及開店費用
預金担保手形貸付 一六、〇〇〇、〇〇〇円 同什器備品費その他
支払承諾 八三、〇〇〇、〇〇〇円 同建築費
合計 一八九、六〇〇、〇〇〇円
丸賀分
無担保手形貸付 七〇、〇〇〇、〇〇〇円 保証金払込、敷金、造作、食料品、書籍、その他
預金担保手形貸付 二二、〇〇〇、〇〇〇円 単名内入資金
合計 九二、〇〇〇、〇〇〇円
総計 一、六七九、七四五、〇〇〇円
右のうち滝嶋個人分については、当時同人の定期預金が元利合計一四、四八一、七一九円であったのでこれをもって預金担保手形貸付一二、九八〇、〇〇〇円と相殺し、銀行の預金残債務一、五〇一、七一九円の中さらに一、五〇〇、〇〇〇円を無担保手形貸付の一部返済に充当し、残一、七一九円は現金で払戻すことによって、残高合計九二、〇七〇、〇〇〇円となり、これが滝嶋個人債務の同月末日現在残高の確定額とされた。
つぎに前記の各融資先別債権についての担保明細は左のとおりである。
滝嶋個人分
定期預金 一三、四四九、〇〇〇円
根抵当権 九〇、〇〇〇、〇〇〇円 評価 六〇、〇〇〇、〇〇〇円
(抵当物件の内訳は後記一覧表のとおり)
合計 七三、四四九、〇〇〇円
白雲観光分
定期預金 五、〇〇〇、〇〇〇円
普通預金 二、五七四、〇〇〇円
合計 七、五七四、〇〇〇円
大日産業分
定期預金 二〇、〇〇〇、〇〇〇円
不動産根抵当権 一七〇、〇〇〇、〇〇〇円 評価 一九〇、〇〇〇、〇〇〇円
合計 二一〇、〇〇〇、〇〇〇円
丸賀分
定期預金 二二、〇〇〇、〇〇〇円
名店会館敷金 四八、五九六、〇〇〇円
丸賀株式 一二、〇〇〇、〇〇〇円 一株 五〇〇円 二四、〇〇〇株
合計 八二、五九六、〇〇〇円
滝嶋個人分根抵当物件内訳一覧表≪省略≫
前記認定の各担保の評価額をそれぞれの被担保債務額と比較すれば、白雲関係が、間接融資分を度外視してもなお最も低率である。けれども、他方≪証拠省略≫によれば、内田が埼銀に報告するためにした内輪な評価によっても、昭和三六年三月一〇日現在における、白雲所有土地の時価は総額一、六〇九、三三一、八四六円であり、取得価格と比較すればその値上りによる差益総額は四五一、八一七、八九七円に上っており、これは白雲資本金五〇、〇〇〇、〇〇〇円の九倍を上廻るものであったことが認められる。大日の土地建物を目的とする根抵当権の評価が前記のように一九〇、〇〇〇、〇〇〇円であったから、その昭和三六年三月一〇日現在までの間における値上りを考慮しても、埼銀にとっては白雲の土地の担保力こそきわめて有力なよりどころであり、これだけでも滝嶋関係債権総額(昭和三五年末現在一、六七九、七四五、〇〇〇円)をおおむね賄い得る状況にあったのである。
三、被告人平沼の武州鉄道脱退と世話人会
≪証拠省略≫を総合すれば、つぎの事実を認めることができる。
被告人丹沢は古く昭和一四、五年頃から埼銀と取引関係を生じ、昭和二三、四年頃、当時埼銀取締役であった被告人平沼とあい知り、爾来同人を陰に陽に後援し、同人を説得勧誘して埼銀頭取に推輓、就任させ、同人の業績を通じて埼銀の隆昌に大いに寄与してきた者である。また丹沢は、自己が事業上最大の恩顧を受け且つ尊敬する人物であった被告人菊池を平沼に紹介し、いらい平沼は菊池の持ち前の美心に感じて同人にも何ごとも相談するようになり、さらに永田雅一、飯塚孝司、佐野友二、小佐野賢治、山田忍三らも加わり、以上七名が、いわば平沼個人の顧問会ないし世話役グループともいうべきものを形成し、平沼もまたこのグループ(以下世話人会という)を信頼し、事あるごとに相談しては助言、後援を受けていた。
ところで、菊池ならびに丹沢は、武鉄建設計画に当初は何ら関与していなかったが、平沼が滝嶋を信用して武鉄建設計画を支持することに対し、銀行家は鉄道事業に深入りすべきではないとの根本的な立場から強く反対し、平沼に対ししばしば口頭でその旨を申入れて忠告していたが、昭和三五年一月になって、丹沢、菊池および山田忍三の三名連名で「舌代」と題する書面を平沼に送り、「平沼頭取は名栗の地における観音、三蔵法師霊骨塔の営造等に心を奪われて銀行業務をおろそかにしている。武鉄や白雲と関係していれば頭取の命取りになるであろう、埼銀は滝嶋関係事業と絶縁すべきである。」との趣旨を直言して警告するところがあった。
一方、昭和三四年一〇月、大蔵省銀行局が埼銀の検査を行なった結果、当時の滝嶋関係貸出金(いずれも手形貸付)として、
大日 四五、六〇〇、〇〇〇円
滝嶋個人 七二、九八〇、〇〇〇円
白雲 一八七、二二〇、〇〇〇円
丸賀 八七、〇〇〇、〇〇〇円
があり、埼銀は、これら貸付について「大日、丸賀とも増資以外には返済のめどはない。現在の売上状況では、返済は長期化するものと思われる。武鉄はこれと表裏一体の関係にあり、免許見通しなく、将来も楽観を許さない。以上の点から滝嶋関係融資は多分に思惑的な点があり、今後の動向が注目される。」旨を指摘された。
平沼は右検査結果につきかなりの精神的衝動を受けていたところ、その頃から宮沢の報告によって滝嶋の会社経理が杜撰放漫であることを知り、同人の言動に種々の不審を抱くとともに、運輸省内はじめ関係者の間に滝嶋は信用できないとする空気があること、武鉄免許の見通しも不明で建設経費の予算も増加の一途をたどっていること等を聞き、さらに昭和三五年に入っては西武鉄道からの反対運動も激化してきた上、前記のように丹沢、菊池らから「舌代」による厳しい忠告も受けていたのである。
これら幾多の原因によって平沼は、急速に滝嶋、武鉄に対する信用と熱意を失い、このままの推移に委せれば、自己の地位はもとより埼銀そのものに大きな災厄を及ぼしかねないことを憂えた結果、昭和三五年一月頃からしばしば世話人会にも自己の心境をうちあけて相談し、埼銀常務会にも諮って、この際いっさい滝嶋事業との関係を断ち、これに対する融資の整理、回収を図り、自らも武鉄発起人を辞任すること、を決意するに至った。
そして、同年二月上旬頃、平沼から世話人会に対して、自分は滝嶋と手を切り、埼銀も滝嶋事業と完全に絶縁したいので、その間の円満な処理を一任したい旨を正式に申し入れ、且つ、埼銀の滝嶋関係債権を整理、回収することにつき協力を得たい旨を依頼したところ、世話人会は積極的且つ全面的にこれに賛同し、最長老である菊池を中心として、平沼の依頼の本旨に添うべく尽力することとし、あわせて、滝嶋が白雲社長を辞任すべきこと、白雲を健全な土地会社として存続させるべきこと、その経営を世話人会が責任をもってすること、等が基本方針として決定された。この方針に基づく実行の第一歩として、本節一、に述べたような、昭和三五年四月一二日の役員交代が行われたのである。
四、いわゆる「滝嶋縁切り」の意味とその必要性
≪証拠省略≫を総合すれば、つぎの事実を認めることができる。
滝嶋は、白雲の発足いらい、その資金を武鉄関係経費に放漫に流用したので、このことが白雲の常務取締役として営業面、経理面を引き締めるべき立場にあった内田および宮沢を困惑させ、右両名および埼銀との間で協議のすえ、やがて滝嶋を白雲社長から退かせる方針にまで発展したとみられるのである。滝嶋は前述(本節一)のように、昭和三五年四月白雲社長を辞任したが、その後、一応白雲の業務を離れたものの、値上りした白雲所有の土地に多大の関心をもち、折あらば発言権を得ようとしていたので、後任社長である丹沢としても滝嶋によって会社財産を荒される危険を感じていたし、後述(第四節一)のとおり昭和三五年一〇月中旬滝嶋が長島埼銀専務から融資を拒絶されるや滝嶋は埼銀の態度をいたく憤慨し、近く開催予定の株主総会において平沼頭取を糾弾する旨を放言し、菊池に対しては、「白雲の追放の見返りとして四、五億円はいただきたい。」「武鉄のために白雲の土地利益の半分をほしい。」あるいは「埼銀への借金を払うから白雲の土地をもらいたい。」などと申し入れた事実もあり、また滝嶋自身の検察官に対する供述にもあるように、「私が白雲の社長をしていては、埼銀は儲けにならぬから、私の追い出し策を図った。……私は二万株の株主だから、白雲に土地を売った人たちや武鉄協力会の会員にこの株を無償でやってしまう。埼銀側に勝手には儲けさせぬ。」との意向を強く表明していたので、菊池、丹沢、平沼ら関係者は、埼銀からの融資停止と回収の方針に踏み切ったものの、平沼の検察官に対する供述調書の供述記載にあるように「下手をすると、滝嶋からどんな反撃を食うかもしれないので、その方法は簡単には決まらなかった。」(昭和三六年一〇月一〇日付)し、また「平沼が武鉄発起人を辞任しただけでは、銀行が武鉄を見放したからということで、滝嶋が白雲の土地を勝手に処分する危険があったので、平沼から菊池に対し、銀行と滝嶋の縁を切り白雲の取締役をもやめさせて一日も早く債権を回収し銀行の安全を図るように頼み、菊池らもまた埼銀のためを思ってその方策を考えた。」(同年一〇月一三日付)のであった。
さらに、関係証拠を総合すれば、
昭和三六年四月、白雲が武鉄沿線の農地を売却処分して四、五千万円の利益を収めたところ、農林省東京農地事務局からの申し入れで売買契約を解除せしめられた上、今後白雲所有の土地はすべて鉄道敷設の目的以外には使用・処分しない旨の覚書を徴せられた事実があり、これが滝嶋の白雲に対する妨害工作によるものと考えられており、また同年七月、白雲役職員の青梅土地区画整理組合役員に対する贈賄容疑が発覚し、白雲本社が捜索を受けるや、滝嶋は、白雲から追放されたことに対する報復手段として、進んで検察庁に対して白雲内部の犯罪的事実を申告していた事実が認められる。
以上の諸事情と、本節二に認定した、白雲所有の土地が埼銀の債権にとって最大の担保価値をもっていた事実とを総合考慮すれば、少なくとも昭和三五年末当時、いわゆる滝嶋問題の処理に当っていた菊池、丹沢、宮沢、および平沼が、滝嶋の白雲に対する一切の実権を剥奪すること、すなわち同人を白雲より完全に追放することが白雲および埼銀の自衛のために緊要であるとの共通の考え方に立っていたことは明らかであり、これがいわゆる「滝嶋縁切り」と称されるものの真の眼目であり、しかもこの考え方には、きわめて的確な客観的根拠があったものと認められるのである。
第三節 関係三被告人の立場
一、被告人宮沢の立場
≪証拠省略≫を総合すれば、つぎの事実が認められる。
宮沢は白雲の設立計画当時埼銀取締役人事部長の地位にあったが、昭和三四年三月九日の白雲創立総会において内田桂一郎とともに常務取締役に選任され、同年六月初旬から、埼銀の方針に基づいて実質的に白雲の経理担当の常勤重役としてその業務に従うこととなった。宮沢はいわゆる派遣重役として埼銀のためとくに白雲経理を厳重に監督する立場におかれたので、内田と協力し且つ埼銀の方針を体して白雲の日常業務に当り、双方の利益をよく考量して誠実に事務を行ない、滝嶋の仮払名下の資金流用を極力抑制し、その経営方針や財政処理が放恣、杜撰であることなども逐一埼銀に報告し、埼銀の期待に十分答えていた。平沼頭取ら埼銀首脳が滝嶋の経理支出の放漫であることを知り、同人の事業逐行に対する信頼度を是正して、その評価を誤まらなかったのも、宮沢の忠実な報告と率直な進言に負うところが大きかった。昭和三五年四月、白雲の役員交代に先だち、宮沢は内田とともに平沼の意を受けて、滝嶋に対し白雲社長からの退社を勧告して、無事にこれを実現せしめた。このようにして、宮沢の埼銀と白雲とを結ぶ舫綱のような地位と役割は、昭和三六年に入るまで終始変りがなかった。
以上の事実に鑑みるときは、宮沢は、白雲の常務取締役として白雲のため誠実に事務を処理する任務を有していたことは当然ながら、同時に、埼銀の派遣重役として、埼銀の利益のためにも白雲の財政・経理を十分に監督し、白雲に対する債権者としての埼銀の利益をもでき得るかぎり擁護すべき立場にあったものと認められるのである。
二、被告人菊池および同丹沢の立場
第二節一ないし四において証拠によって明らかにされた諸事情を総合考慮すれば、平沼にとって、滝嶋を相手に円満に事態を拾収することは必らずしも容易ではなく、事の成否は埼銀の内外に著大な影響もあることなどで、かねてから信頼する世話人会に依頼してすべてを円滑且つ平穏裡に処理しようと考えたことは、当然というべきであり、しかも平沼は、銀行頭取の立場にある者として、大蔵省によって指摘された武鉄関係の思惑貸付が武鉄建設計画の挫折によって回収不可能となったときの、銀行の信用・名誉の失墜およびそれに対する頭取としての責任が最大関心事であったことも、またきわめて明らかであるといわなければならない。
かくして、平沼の右の意向を体した世話人会の、とくにその中心的存在である菊池、丹沢としては、滝嶋問題処理というものが、同人を白雲から追放することによって埼銀および平沼をして円満無事に滝嶋事業と絶縁せしめること、ならびに、滝嶋関係融資の整理、回収を図ること、の二つの眼目が表裏一体となって、その内容をなすものであることを理解し、この意味における滝嶋問題処理を埼銀および平沼のために完逐することの依頼を受け且つこれを承諾したものというべきである。ここにおいて右両名は、平沼の依頼によって右の如き事務を誠実に処理すべき立場に立ったものとみられるのである。
その後、右依頼の目的を実現するために、昭和三五年四月一二日、丹沢は白雲の取締役社長に、菊池は同取締役に、それぞれ就任したことも前記のとおりである。したがって両名はこの時以後、取締役として白雲のために誠実に事務を処理する立場と、平沼および埼銀のために前記の如き事務を誠実に処理する立場との二重の地位におかれたものであることはいうまでもない。
この点被告人丹沢およびその弁護人は、丹沢がその白雲社長就任の経緯から、いわゆるロボット社長であって、実質的には何らの事務にも関与していなかったと主張する。しかし証拠によれば、同人は、自ら白雲の取締役会を主宰し、その事業方針を勘案し、多くの禀議書に決裁をしていた事実が認められ、必ずしも名義のみの社長であったとは断定することができない。たとい白雲の会社事務への関与の程度が稀薄であったとしても、法律上取締役社長として誠実に会社のために事務を処理すべき地位にあったことはこれを否定することができない。
被告人平沼およびその弁護人は、平沼から世話人会に対して滝嶋との絶縁について適当な処置を委任したにすぎず、債権の整理、回収を依頼したことはない旨を主張する。その主張は、本来銀行の融資部等が取運ぶべき資金回収の事務の処理まで委任したのではないという意味においてはまさにそのとおりであろうが、当時の平沼の立場とすれば、滝嶋との絶縁ということじたい、大所高所から対処する融資の整理、回収と離れては考えられなかったことは証拠上明らかというべきである。
被告人平沼およびその弁護人らの右主張に対応して、被告人平沼、同滝嶋を除くその余の被告人らおよびその弁護人らも、平沼から世話人会に対し債権回収を依頼した事実はない旨を主張するが、これも本件背任の意図を否定するため、埼銀の利益を図ったのではない旨を強調する趣旨から出たのであって、前示のような当時の自然的、客観的情勢に反する右弁解を採用することはできない。
これを要するに、平沼が世話人会に依頼した事項の中に、埼銀の大局的な利益のために滝嶋関係融資の回収につき万全の処置をとるということが、極めて重要な目標として考えられていたことは否定することができないのである。
第四節 白雲観光株式会社の役員会の開催と解決案の決定
≪証拠省略≫を総合すれば、以下一、二の各事実を認めることができる。
一、役員会の開催までの経過
平沼から滝嶋問題処理を一任された菊池、丹沢らは、前記のようにまず世話人会の全員をもって、白雲の経営陣に乗り込み、滝嶋を牽制しながら、同人の出方に応じて一挙に事を解決すべく、静観していたところ、滝嶋は、昭和三五年一〇月中旬頃、資金に窮し、埼銀に長島専務を訪ねて融資を依頼したが、これを拒絶されたため、さらに菊池を訪ね、窮状を訴えて相談した。菊池はこの際滝嶋所有の白雲の株式を売却処分して債務を全部処分したらどうかと提案した。滝嶋はこれに応じて、株式を処分すべく奔走したが、成功しなかったため、同年一二月二五、六日に至って、いよいよ金策がつかず、埼銀からは、年末には抵当権を実行すると警告を受けていたので、菊池を訪ねて、「二億円がないと年が越せない。何とか助けると思って、この急場を救ってもらいたい。」と懇請するに至った。その時までの、滝嶋から菊池に対する説明によれば、右二億円の内訳は、武鉄関係諸経費、免許促進のための運動費等のうち大日の経理で賄ったため負債となったものその他の借財が一億一千万円位、別に埼銀に対する個人債務が約九千万円ある、というのであった。
菊池は、これよりさき同年一〇月中旬、滝嶋が資金的に窮状にあることを知って以来、埼銀幹部、丹沢らとも連絡の上、この機会を利用して事を解決すべく種々考慮した結果、基本方針として、滝嶋の個人債務については同人の個人財産を処分させて整理し、滝嶋所有の白雲の株式は全部これを引取って滝嶋と白雲との関係を絶つ、という腹案を抱いていた。そこで菊池は、滝嶋から前記のように懇請を受けるに及び、同人に対し、右の基本方針に則って、
① 滝嶋の埼銀に対する個人借入金約九千万円を白雲が肩替りする。
② 埼銀に担保として提供してある滝嶋所有の土地(第二節二に記載の一二筆。以下担保不動産という。)を白雲の名義とする。
③ 滝嶋所有の白雲株を株主において公平に引取り、その代金として一億一千万円を滝嶋に与える。
④ 滝嶋は白雲と手を切り、以後いっさい異議を述べない。
⑤ 滝嶋は、武鉄が創立された暁には、自己が償還を受けるべき創立費の中から①の債務を白雲に支払う。
との具体的最終案を示したところ、滝嶋はこれを全面的に諒承するに至った。
二、解決案の決定
菊池、滝嶋間の右諒解事項は、急速を要し且つ重要な案件であるため、菊池は直ちにこれを白雲役員会に付議することとした。昭和三五年一二月二七日午後六時頃から埼銀東京本部において役員会が開催され、菊池、宮沢のほか佐野友二、飯塚孝司、山田忍三、内田桂一郎が出席し、菊池から、滝嶋が菊池の許に救済を求めてきた前記の経緯と前記最終案の骨子を説明したが、当日は社長である丹沢が欠席したため、役員会は翌二八日に続行された。
二八日には、前日の出席者のうち飯塚孝司を除く全員と丹沢が出席し、菊池から前日と同様の説明を行い、さらに、前掲①ないし③の事項につき多少具体的に、
白雲には相当程度の含み資産もあろうから、滝嶋所有の株式二万株はその全部を額面の一一倍に相当する一億一千万円で他の株主が引受けること、
担保不動産は六、七千万円の価格のものであるが、期間一年の買戻約款付として約九千万円で白雲が買受け、その代金をもって滝嶋の埼銀に対する個人債務を返済させたいこと、
以上に要する経費合計約二億円はすべて新たに埼銀から融資を受けて賄うこと、
を提案し、なおその席上
大日と丸賀は合併すること
が付加提案された。
菊池はこれら案件について出席者の同意を求めたところ、とくに異論もなく出席者の全員が賛成した。そこで別室に控えていた滝嶋もその席に出て、右解決案の説明を受けてこれに同意し、さらに埼銀側から平沼頭取、秋元副頭取、長島専務取締役ら首脳部が出席し、埼銀からの約二億円の融資の件も含め右の原案を異議なく承認したので、ここに関係者全員の同意によりすべて原案どおりの決定をみた。よってその場で後記(イ)ないし(ニ)の書面がそれぞれ作成され、(ロ)の書面は埼銀側に、(ハ)および(ニ)の書面は白雲にそれぞれ交付されて、役員会が終了した。なお滝嶋個人の埼銀に対する債務の残額(すなわち担保不動産の売買価格)は第二節二に認定したとおり、一二月末日現在において九、二〇七万円と確定された。
記
(役員会において作成された書面)
(イ) 滝嶋氏関係事項解決要項と題する書面
「一、滝嶋氏所有の白雲観光株式会社の株式二万株を白雲観光株式会社関係者が金一億一千万円で引取る。
二、滝嶋氏は白雲観光株式会社の取締役を辞任する。
三、滝嶋氏の埼銀からの個人債務については埼銀、滝嶋、白雲間で協議して速かに返済方法をたてる。
四、大日産業株式会社と株式会社丸賀は合併する。」
(ロ) 滝嶋総一郎名義埼玉銀行取締役頭取平沼弥太郎あての書面
「武州鉄道とこれに関連する計画は私の発案と企画によるものでありますが、その後の事情に変更があり、成立の見通しが困難となり、御迷惑を相掛けましたことは、一切私の責任であります。ついては菊池寛実氏に従来の経緯を申上げ、また将来の事を御一任申上げましたところ、特別の御高配に預かり、円満に解決しましたことを、心から感謝します。」
(ハ) 滝嶋総一郎名義白雲観光株式会社代表取締役丹沢善利あて念証
「私は今般白雲観光株式会社取締役を辞任致しましたので、御社との関係はありません。したがって今後御所有の土地を適当に処分せられることについて毛頭異議はございません。尚本件については他より故障等相生じましても、私が一切の責に任じ、貴社に決して御迷惑をおかけ致しません。後日のため本証一札差入れます。」
(ニ) 滝嶋総一郎名義白雲代表取締役丹沢善利あて、白雲取締役辞任届
「私は今般都合により取締役を辞任致したくこの段御届け致します。」
第五節 解決案の内容とその意義
一、決定案とその解決の方法(検察官の主張に対する批判)
本章においてすでに認定した各事実、とくに第四節記載の各提案事項、役員会において作成された前記各書面の記載およびその他の証拠を総合すれば、昭和三五年一二月二七、八日の役員会において決定された最終解決案の内容は、結局、つぎのように整理することができる。
(一) 埼銀は白雲に九、二〇七万円を貸出す。
(二) 滝嶋は白雲に対し、埼銀のため抵当権を設定してある一二筆の土地(本件にいわゆる担保不動産。第二節二参照。)を、一年期限の買戻約款付で代金九、二〇七万円で売渡し、白雲は右不動産の買受代金として前記(一)による九、二〇七万円を滝嶋に支払う。
(三) 滝嶋は白雲から受領した右九、二〇七万円をもって埼銀に対する個人債務を完済する。
(四) 埼銀は大栄不動産、新光不動産、武州商事、不二サッシ工業各株式会社に、その所有する白雲株の株数に応じて、滝嶋所有の株式を買受けるに要する経費合計一億一千万円を貸付ける。
(五) 右各会社は右融資金をもって、滝嶋所有の白雲の株式、合計二万株のうち各社の所有株数に按分比例した株数を、一株五、五〇〇円の割合で買受け、その代金を滝嶋に支払う。
(六) 滝嶋は右代金をもって、自己の埼銀以外の債権者に対する債務の返済にあてる。
(七) 滝嶋は白雲の取締役を辞任し、且つ白雲所有の不動産については何らの利益を主張しない。
(八) 大日と丸賀は合併し、丸賀の埼銀に対する債務は大日に承継される。
右(一)ないし(八)に要約される解決案(以下決定案と称する。)は、すでに認定したような、それが決定されるに至った経緯、いわゆる滝嶋処理問題の意義、目的その他の客観情勢にかんがみるときは、その内容においては、すべて不可分の一体をなすものとしてはじめて意義をもつものであることが明らかである。検察官は、前記(二)の不動産売買の点のみを抽出して、その代金が当時の時価を超過するものでその差額が白雲の損害にあたると主張する。けれども、本件のように、およそ企業経営の分野で少なからぬ利害が複雑に対立する事項につき、関係者あい集って一連の処置がとられた場合に、その処置の特定の一部分のみに着目し、しかもその単純なる計数上の面だけである当事者にとっての利害得失を論ずることは、甚だ適切を欠くものといわなければならない。とくにその処置を法律的にみてこれに民事法規あるいは刑罰法規を解釈適用する場合には、何よりもまず、あい関連する各個の処置を全体との有機的な関係において観察することによって、その正しい意味を把握することに努めなければならない。
よって以下においては右の見地に立って、本件における主要争点たる(二)の点を中心として、決定案の事実上および法律上の意義を検討する。
二、決定案の事実上および法律上の意義の検討
そもそも滝嶋問題処理の眼目は、白雲をして滝嶋の支配、干渉から完全に離脱させることと、埼銀の滝嶋関係債権を回収することとに存したことは、さきに説示したとおりである。そして、証拠によって認められる当時の客観情勢としては、滝嶋をして白雲からの「縁切り」を納得させることに成功しなければ、最悪の場合には滝嶋の画策により白雲の所有土地の値上りによる差益額概算四億五千万円(第二節末尾参照。なお当時の関係者によって白雲の含み資産が約六億円と評価されていたことにも相当の根拠がある。)を喪失することも予想された一方、滝嶋をして年末の急場の打開に成功せしめなければ、同人の各方面に対する信用は一遽に失われ、武鉄事業が潰滅し、ひいては白雲所有の土地の財産評価と白雲の事業の将来とに重大な影響を招くおそれがあったのである。このような状況下にあっては、滝嶋を白雲から追放する(決定案(七))ためには、白雲においてその代償として一時的に相当程度の犠牲を忍ぶこともやむをえなかったものと認められる。この代償がすなわち決定案(二)後段の九、二〇七万円の提供に他ならないのである。
ところで、白雲は、埼銀からあらたに九、二〇七万円の融資を受ける(決定案(一))が、これは直ちに滝嶋に債務返済のためその全額を提供し、埼銀に対しては白雲の名において返済責任を負うことになる(いわゆる債務肩替り)。しかし白雲としては滝嶋のため九、二〇七万円の出捐をしたことになるので、同人に対して同額の求償権を取得することは当然である。滝嶋は将来新設会社から武鉄創立費の償還を受けたときはその中から右償還債務を白雲に弁済することが、解決案決定前から事実上予定されていたことは、さきに認めたとおりである(前節一⑤参照)。
右の事実と、
一、証人秋元順朝の当公判廷(第六三回)における、「武鉄が免許になれば、新設会社が設立費を負担するから、滝嶋に入る金で不動産をもとに戻す、」旨の供述、
一、被告人菊池の当公判廷(第一〇七回)における、「一二筆は武鉄創立費の担保で滝嶋の立替の手段であるから、結局は滝嶋に帰るべきもので、白雲に終局的に取ることはできない、武鉄が一年以内に免許になり会社が創立されることを前提として、一年という買戻期限をつけた。一年間に買戻しできなければ、さらに協議することになっていて、買戻権が失われることではない……土地は窮局的に売買するとの考えは全くない。」との趣旨の供述(被告人平沼については同回公判調書中の供述記載)
一、被告人宮沢の当公判廷(第一〇〇回)における、「武鉄ができれば、創立費がもらえるので、不動産を買戻す、と滝嶋がいった、創立費として九千万円は一応筋の通るものではないかと考えられた、」旨の供述
一、被告人滝嶋の当公判廷(第九一回)における、「担保は横すべりのつもりでいたら、売買になったので、冗談じゃないと抗議したら、買戻付ということになった。免許のための費用の担保であるから、発起人全部が負担すべきで、私個人のものを手離す理由はない、」旨の供述、
等を綜合すると、買戻約款がいかなる経緯で付加されたかは必らずしも明らかではないが、その実質的目的は、滝嶋が白雲に対して右九、二〇七万円を償還することによって同人にその所有権を回復せしめることにあったことは明らかである。
さらに、関係の証拠によると、本件担保不動産の所在がいずれも武鉄沿線とはほとんど、あるいは全く関係がなく、とくに宅地以外は交通不便な山中にあるなど投資対象として不適当であって、白雲としてこれらを正式に買い受ける実益があるとは認められないこと、白雲は九、二〇七万円を最終的に負担する理由も、意思もないので、滝嶋に対する求償債権を可及的に確保する必要があったこと、等が認められる。これらの事情と、前記の買戻約款の目的とを総合考慮すれば、本件担保不動産の買戻約款付売買は、白雲の滝嶋に対する右九、二〇七万円の求償債権を担保するための所有権移転である、とみなければならない。
要するに白雲としては、数字的には、四億五千万円の喪失の危険を免れるため九、二〇七万円を出捐し、その償還請求権を担保するため本件不動産の所有権を取得することになるので、決定案(二)はまさにこのような意味をもつものと解すべきである。
右のように、将来の大なる損害を回避するため現在において小なる犠牲を払うことが経済取引界においてきわめて通常行われており、何ら異とするに足りないことは、関係の証拠によってこれを認めることができる。本件の場合は、現在の小なる犠牲をさらに回復せんがため、滝嶋(債務者)から担保不動産の所有権を取得したのであるから、白雲にとっては、右物件の実質価値に相応する程度の利益が付加されたものというべく、契約上の売買価格と実際の価格との差額はとくに問題とするに当らないことになるであろう。
決定案(四)および(五)は、滝嶋所有の白雲の株式全部(二万株)を白雲の他の株主において買取ることであり、滝嶋の白雲に対する事業上の発言権を収奪するために必要な手段であったことはいうまでもない。買取価格が額面の一一倍である点に問題があるように思われるが、関係証拠によれば、この売買価格は一面において滝嶋の年末の窮状を打開するために必須な金員二億円のうち前記九、二〇七万円を差引いた残額にほぼ相当し、且つ、当時白雲の資本金五千万円のところ、不動産の値上りによる含み資産がまさにその一一倍である六億円に相当し、なお引続き値上りの見込みがあったから、この程度の対価で買取っても、株主として損失はないであろうとの当事者の計算に基づいているのである。しかも右の取引は株主が買受人となるので、白雲の財務諸表の数字には何らの影響を及ぼすことなく、滝嶋の需要に応じ、その白雲との「縁切り」を承諾せしめるに好個の反対給付となっていたのである。したがって、右のような株式買取りの処置もまた滝嶋追放の手段として適切、巧妙であることが客観的に看取される。
決定案(一)および(四)によってあらたに約二億円を融資することは、埼銀にとって損害とはいえないとしても、内一億一千万円は株式買取資金、九、二〇七万円は債務返済資金であり、いずれも非生産的な使途にあてられるものであって、銀行融資として決して有利なものとはいえないことが、関係証拠によっても窺えるのである。しかし埼銀は、この二億円の出捐をあえてすることによって滝嶋の個人債務九、二〇七万円の完済が得られ、且つ同人の追放が実現されて白雲の財産の減少を防止し得るので、白雲に対する債権の確保にも大いに役立つことはいうまでもない。また右九、二〇七万円については、結果的に白雲への肩替りの効果を生ずるが、この結果は埼銀にとっては、白雲の返済能力が滝嶋個人のそれより勝れているだけ有利であることはもちろんである。
決定案(八)の大日と丸賀の合併が、埼銀側と白雲側のいずれの発案になるかは証拠上必らずしも確定し難いが、いずれにしても埼銀の丸賀に対する債権の担保力を強化して回収の道を確保する意味をもつ点において埼銀の利益に添うものであることは明らかである。この条項が同時に決定されたことは、本件の解決処理が表面的にも埼銀の滝嶋関係債権全般の確保、回収をも目途としてなされていたことを物語るものである。
決定案(三)および(六)によれば、滝嶋側として、白雲と埼銀の助力によって合計約二億円を調達し得て当面の切迫した経済的苦境を切り抜けることになるので、この点は同人のため甚大な利益ではあるが、同時に、決定案(七)によって白雲から完全に排除されその財産に対する発言権を失うことは事業家としての有力な活動地盤を奪われるに等しく、重大な失陥であるといわなければならない。その所有株式を額面額の一一倍で売却し得たことも、前記のように白雲の含み資産があって株式の実質価格が高騰していたことからすれば、右の数字が示す程の利益とはいい難いし、時価六千万円程度と評価されていた担保不動産を九、二〇七万円で処分したことも、前記のように同額の償還債務の担保として債権者たる白雲に提供したにすぎないので、その差額約三千万円の「利益」は実質的には無意味であって、単に売買契約上の表見的なものに止まるというべきである。
滝嶋問題処理に関する決定案の実質内容およびその関係各当事者に対する利害得失はおよそ以上の如きものである。さきに証拠によって明らかにしたこの問題の本質と、当時の各当事者の立場、ならびにそれらをめぐる客観情勢とにかんがみるときは、以上の如き解決処理は、結局において、各当事者の意思と希望を適当に取捨選択し、利害を勘案、調節することを得て、客観的にははなはだ適切、妥当な処置であったと認めるのが相当である。
以上の見地に立ってみれば、
証人秋元順朝の当公判廷(第六三回)における、「この解決案の意義は、銀行と滝嶋関係事業との関係を絶つことと、武鉄から独立した不動産会社としての白雲の基礎ができたことにある。」との趣旨の供述、
内田桂一郎の検察官に対する昭和三六年七月二六日付供述調書中、「結論的には一億一千万円で滝嶋を白雲から完全に手を引かせたことと、九千万円を白雲が肩替りすることによって埼銀が滝嶋個人に対する不良債権を白雲に引受けさせて確保したとの二点に帰着する、」旨の供述記載、
証人内田桂一郎の当公判廷(第五一回)における、「役員会の決議に対する滝嶋の考は、とにかく年が越せるということで一応喜んでいたのではないかと思う。二億円というのはおそらく彼の希望で出た数字であると思う。だから解決案に対し不利であるということを聞いたことはない、」旨の供述(被告人菊池については同回公判調書中の供述記載)
はいずれも、この解決案の、埼銀、白雲、滝嶋にとっての意味をそれぞれ端的に且つ実質に即して表現したものとみられるのである。そしてまた、さきに認定したように、役員会の席上、菊池の提案趣旨の説明に対し出席者中にべつだんの異議もなく全員賛成したことも、むしろこの解決案の内容の客観的妥当性を裏付けるものというべきであり、
被告人平沼の当公判廷(第八六回)における、「新たなる融資は解決案に当然随伴するものとして承認した。……役員会では銀行の意思を代表して、銀行のためにも白雲のためにも、そして滝嶋のためにもよい、三方喜ぶ理想的な解決です、とてお礼を述べた、」旨の供述
も、当時の銀行代表者としての同人の心境を率直に表現するものとして受取れるのである。
而して、本件における具体的状況上、右のような解決方法よりさらに賢明且つ合理的で、いずれの当事者にもより多くの利益を与え、また、より些少の損害にとどまる如き他の解決方法があるか否かの点については、これを肯定するに足りる証拠はなく、また、本件において問題とされる、白雲に与えた損害という点のみについても、その程度のより少なかるべき解決方法もまた証拠上これを認めることができないのである。
第六節 結論(主として背任の犯意について)
菊池、丹沢、宮沢は、第三節に認定したとおり、いずれも一面白雲取締役として白雲のため誠実に事務を処理する立場と、他面埼銀頭取である平沼から滝嶋問題処理を委任された者(菊池、丹沢)および埼銀からの派遣重役(宮沢)として埼銀のためにも誠実に当該事務を処理する立場とがあい競合する地位にあって本件の如き解決処理を行なったのである。右三被告人としては、すべての事項についてもっぱら白雲の利益のみに固執することなく、埼銀の利益をも然るべく考慮し、とくに両者の利害相衝突する事柄については、双方の利害得失を賢明に洞察して、できるかぎりその調節をはかるのが当然の任務であったというべきである。而して本解決の決定案は、ほぼ忠実にその線に沿い客観的にもはなはだ適切妥当なものであること、上来詳説したとおりである。のみならず、本件の決定内容は菊池の指示によって役員会の終了後欠席株主にそれぞれ通知され、結局、その決定後きわめて短時日の間にほぼ全株主の承諾を受けていた事実が関係証拠によって明らかに認められる。
これらの事情に徴すれば、右被告人三名が本件の解決案を決定し且つ実行するに当って、白雲取締役としての自己の任務に違背するとの意識をもっていたと解することは、とうていできない。もし被告人らが個々の当事者ごとに解決案の一条項の趣旨をあてはめて、それがその当事者に対して損害を与えるとの認識をもっていたとしても、それは当該条項じたいの解釈上むしろ当然のことであって、それが直ちに自己の任務に背くとの意識――いわゆる背任の犯意――に該当するものでないことはいうまでもない。
以上のとおり、本件の全証拠関係によれば、菊池、丹沢、宮沢の三名に関しては、背任の意思を認めることができないので、他の争点についての確定、判断をまつまでもなくすでにこの点において犯罪の証明がないといわなければならない。
平沼は白雲の役職員の身分がなく、刑法六五条一項にいわゆる身分なき者の加功による共犯として起訴されたものであるが、身分者の犯罪の証明がないので、平沼についても、身分者の犯罪行為に加功したとの事実の証明がないことに帰する。
滝嶋は、埼銀との身分上の関係がないので、菊池、丹沢、宮沢と同様に論ずることはできない。けれども、第四節一に認定した事実によれば、滝嶋は、昭和三五年一〇月中旬窮状の打開策を菊池に相談していらい同年一二月二五、六日頃菊池から解決に関する腹案を示されるまでの間、もとより白雲取締役としてではなく、もっぱら個人としての事業上の困難を訴えて援助をこい、菊池の提案に対しては、担保不動産を白雲の名義に移す件についてその所有者として同意したにすぎないと解するのが相当である。また第四節二においても明らかなとおり、滝嶋は、一二月二七日の役員会には出席せず、二八日の役員会では、すでに出席した白雲の役員の全員一致で解決案の内容が確定されて後にその席に呼び入れられ、この案の内容の説明を受けてそのままこれを承認しているのである。そして同人は、白雲取締役としては本件担保不動産の取引に関しては役員会の承認決議に参加することができない(商法二六五条、二六〇条の二、二項、二三九条五項)ので、右の承認は、取引相手方としての自己の関係部分のみについての承認であって、白雲取締役としての職務行為ではないと解せざるをえない。しかも同人は、右同日、解決案中の一条項として自己が白雲取締役を辞任する旨の意思表示をし且つ即日その手続をとって取締役を辞任しているのである。したがって、同月三〇日、本件解決案に従って担保不動産の売買契約を締結する等、その実行に関与していた事実は証拠上認められるけれども、この時はすでに商法四八六条所定の身分を失っていたので、前記平沼の場合におけると同様、身分者の犯罪の証明がないことによって、滝嶋についてもまた、犯罪行為に加功したとの証明はないことになる。その他同人が白雲取締役の地位にあって、他の者と共謀しまたは単独でその任務に背く行為をしたとの事実を認めるに足りる証拠も、もとより存在しない。以上のようにして、滝嶋についても、本件商法違反(特別背任)の公訴事実はその証明がないというべきである。
第四章 証憑湮滅≪省略≫
第五章 四億円の融資に関しての贈収賄
第一節 序論
昭和三六年一〇月一六日付起訴状の公訴事実の要旨は被告人平沼は株式会社埼玉銀行の代表取締役頭取として同銀行における金銭の貸付等その業務全般を総理しているものであり、被告人田中は同銀行東京支店長として同支店における金銭の貸付事務等一切の事務を統轄処理していたものであるが、
第一、被告人永田、同菊池は共謀の上、被告人永田において埼玉銀行より東洋精糖株式会社の株式買取資金として金四億円の融資を受けるに際し、被告人平沼、同田中の好意ある計らいを受けたことに対する謝礼の趣旨の下に、
一、昭和三五年五月下旬東京都中央区京橋一丁目四番地埼玉銀行東京支店において被告人田中に対し金二百万円を供与し、
二、同月下旬、同所埼玉銀行東京本部において、被告人田中を介し被告人平沼に対し金八百万円を供与し、
もってそれぞれ被告人平沼、同田中の前記職務に関して贈賄し、
第二、被告人田中は、前記第一の一、記載の日時場所において同項記載の趣旨の下に供与されるものであることを知りながら、被告人永田、同菊池より金二百万円を収受し、もって自己の前記職務に関して収賄し、
第三、
一、被告人平沼は、第一の二、記載の日時、場所において、同項記載の趣旨の下に供与されるものであることを知りながら、被告人田中を介し被告人永田、同菊池より金八百万円を収受し、もって自己の前記職務に関して収賄し、
二、被告人田中は、右の如く被告人平沼がその職務に関し賄賂を収受するにあたりその情を知りながら、金八百万円を被告人永田らより受取り、これを被告人平沼に交付し、もって被告人平沼の犯行を容易ならしめてこれを封助したものである。
というのである。
関係証拠に照らせば、株式会社埼玉銀行が一般の銀行業務を営むほか、法令により認められたその他の業務を営む銀行であること、被告人平沼が昭和二四年頃より昭和三六年後半までの間同銀行の代表取締役頭取として同銀行の業務全般を総理し、金銭貸付業務については貸付限度一億円以上のものについての貸付禀議に対し決裁をする職務にあったものであること、被告人田中が、昭和三三年九月より昭和三六年一月までの間同銀行の東京支店長として同支店の一切の事務を統轄処理し、金銭貸付業務については当座貸越以外の預金担保貸付を金額のいかんを問わず専行取扱い、担保付手形貸付の四百万円を超えるものを禀議に付して決裁をえた後貸付する職務にあったものであること、被告人永田、同菊池が同銀行の取引先中の有力者としてかねてから同銀行の事業の運営につき同銀行およびその頭取平沼を後援していたこと、永田が同銀行東京支店の預金獲得および同名古屋支店の開設等に関し同銀行のため多大の協力をしていたものであること、永田が仲介者となって東京急行電鉄株式会社と、株式会社秋山商店、秋山利郎および秋山利太郎との間の東洋精糖株式会社の株式買占、会社乗取りの紛争を昭和三四年九月一〇日和解に導いたこと、秋山商店側が右和解により買取ることになった東京急行電鉄株式会社の所有する東洋精糖株式会社の株式(以下洋糖株という。)八六〇万株中二〇〇万株を永田が引取ることになったこと、および永田は右二〇〇万株を引取ることにしたものの買取資金もなかったので、同年九月末頃菊池にこれを買取るように懇請したところ、かえって菊池より、銀行から融資をうけてむしろ永田自身が買取るように勧められてその気になり、永田が買取資金四億円の融資方を右東京支店長田中に依頼したことが認められる。
第二節 四億円融資の経緯と、これについての被告人永田の認識
昭和三四年九月末頃永田が田中に右四億円の融資方を依頼したときから、同年一〇月八日および九日右東京支店より永田に対し計四億円の貸付がなされたときまでの間の事情について、永田、菊池、田中、平沼の当公廷における各供述並びにこれらのものの検察官に対する供述調書中の関係供述記載部分には、相互に相抵触し矛盾し合う供述および供述記載があるが、この抵触矛盾は、(1)その期間内に起った一連の出来事についての右四名の関与の程度の多少、深浅に由来した認識の差異があること、(2)右四名がおのおの忙しい職業、環境の中におかれていたため、その期間中に起った出来事について記憶が判然としなくなったことがあること、(3)田中が平沼を、菊池が田中をといったふうに、右四名相互のかばいあいに由来した供述および供述記載に不正確があること、に起因すると認められるので、これらの三点に留意しつつ、ほぼ正確と認められる供述および供述記載をひろいあげて綜合し、他の関係証拠にも照らすと、その期間内には、次に列挙する出来事があったことが認められる。
(イ) 融資の依頼をうけた田中が埼銀頭取平沼に貸付の可否につき打診したところ、平沼は、担保となるものが、買取られる二〇〇万株の株式のみであること、貸付金の使途がうるさい問題の起きている株式の買取にあること、銀行としては永田個人をそれほど信用していたわけでないこと、等を顧慮し、田中に対し肯定的な返事をしなかった。
(ロ) しかし田中は、日頃恩顧をうけていた永田に平沼の意向を話して、貸付を拒む気にもなれなかったので、株式担保のみによる貸付方法によるのではなく銀行にとって有利な貸付方法によるなら平沼の同意がえられるのではないかと考え、永田に対し、資力、信用とも十分な菊池の保証があるなら、銀行も貸しやすい旨を告げ、永田に同道して菊池宅を訪ね、永田とともに菊池に右保証方を懇願した。
(ハ) この懇願に接し、菊池は、埼銀およびその頭取平沼に対し少なからぬ後援と協力をしていた永田が、会社乗取りという好ましからぬ出来事を解決するため融資方を依頼しているのに、平沼がこの貸付に乗り気でないことを察して憤を感じ、ここに融資依頼額の半額に当る二億円の定期預金を担保に提供し且つ融資依頼額の全額について保証をすることにより、永田が、貸付を受けられるようにしてやろうと考えるに至り、右保証に応ずる旨を永田に告げた。
(ニ) 菊池のこの話をきき、永田は、感激のあまり、株式を買取りこれを買却して利益があったら利益を折半する旨を申込んだところ、これに対し菊池はとるともとらぬともいわなかったが、永田としては利益折半の申込が菊池により受諾されたものと考えた。
(ホ) ほどなく菊池は埼銀本部に平沼を訪ね、同人に対し二億円の定期預金を担保に提供し且つ四億円について保証をする旨を告げるとともに、「見方によってはおかしい位埼銀に協力している永田にもう少し誠意をもって心配してやったらどうか。」といって平沼の反省を求め、永田への貸付方を説得して、ついに平沼の諒解をとりつけた。
(ヘ) 帰途菊池は、埼銀東京支店に田中を訪ね、同人に対し、「頭取にあの件はよく話しておいたよ。君。」といって、頭取の諒解をとりつけたことを明かにし、貸付手続を進めるように示唆した。
(ト) そこで田中は、昭和三四年一〇月一日付で永田に対する金二億円の担保付手形貸付につき貸出の禀議をし、埼銀本部におもむき、関係常務、部課長および頭取、副頭取に事情を話し、禀議手続が円滑に進むようにはからい、同月三日付で頭取平沼の決裁を経た後、洋糖株二〇〇万株を担保とし菊池の裏書保証をえて、担保付手形貸付として同年一〇月九日金二億円を埼銀東京支店より永田に貸付けた。
(チ) さらに田中は、菊池が当時代表取締役社長の地位にあった株式会社高萩炭砿を預金者として埼銀東京支店に新に設定された二億円の定期預金を担保に、右支店長の前記専行権限により預金担保付手形貸付として同年一〇月八日金二億円を永田に貸付けた。
以上の四億円融資の経緯に関し、永田がどの程度認識していたかを検討すると、永田の当公廷においての「(四億円の融資に関し)菊池が平沼頭取に会ったことを知らない。」「二億や三億位の金は、私が受出して菊池が保証するといえば、担保があろうとなかろうと……(菊池が二億円の定期預金を担保に供したという)そういう話が出ていたのか知らないけれども、そう頭にとめていませんでした。」「永田雅一と、天下の菊池が(借りるなら)、埼玉が貸さなくたって、どこだって貸しますよ。」との供述、および永田の検察官に対する昭和三六年一〇月一〇日付供述調書一項中、「埼銀から四億円の金を借入れたことについて、銀行からとくに便宜な扱いをしてもらったとは思っていません。銀行側に貸付ける意思があり、融資の枠がありさえすれば、借入申込から貸付まで、数日間で実現するということは、通常ありうることです。」との供述記載に鑑みれば、永田としては、田中が永田から依頼された融資方について平沼の意向を打診したところ、平沼が乗り気でなかったこと、板ばさみになった田中がやむなく菊池より保証をうるよう永田に説くに至るまでの事情、永田より保証方を懇請された菊池が平沼の態度に憤りを感じ、自ら平沼を訪ね、二億円の定期預金を担保に入れること並びに保証をすることを告げ、平沼を説得してその諒解をとりつけたこと、菊池がその帰路田中を訪ね、平沼の諒解をとりつけたことを告げ、貸付手続を進めるように示唆したこと、菊池が永田への融資について諒解をとりつけていたからこそ、禀議手続が円滑に進み、禀議書提出の時より一週間ほどで貸付が実現したこと等、永田の言動に直接関係のない、いわば影の事情を全く知らなかったものと認められる。
なお田中の検察官に対する昭和三六年九月三〇日付供述調書一一項の供述記載によれば、洋糖株の処分について大体の見通しのついた昭和三五年五月一〇日過頃、永田が田中を通じ、菊池に対し、「思いのほか利益が上らないので、利益を半々と申しておいたが、菊池さんには少し我慢してもらって、自分の方に少しでも余計に廻してもらえないだろうか。」と申し伝えたことが認められるが、この事実もまた、永田が右のような菊池の影の努力を全く認識していなかったことを示すものであると解せられる。
第三節 東洋精糖株式の売買事業についての被告人菊池の考え
関係証拠に照らせば、前述のような利益折半の話合をきいた田中は、永田の洋糖株買取りを永田および菊池の共同事業であると考え、その旨を平沼にも伝え、またその後も、右貸付金の利息の取立および株式売買の手数料等の経費支出に当り、永田と菊池が折半して負担するように取り計らい、菊池もこの処置に異を唱えることなく従っていた。そこで永田は前節に示された事情から、また田中、平沼はここで述べる事情から、永田の洋糖株売買を永田、菊池の共同事業であると理解していたことが認められる。
永田の洋糖株売買が永田、菊池の共同事業となるためには、右売買により利益のあがったときその利益についての分け前を取得する意思を菊池が当初よりもっていたことを要するが、この点に関する菊池の公判および捜査過程における供述としては、同人の当公廷における「(永田から利益折半の申出のあったとき)とるとも、もらわぬともいいません。初めからとる意思がないのですから。」との供述、菊池の検察官に対する昭和三六年九月二二日付供述調書五項中、「利益は折半にしようという話合いであったのですが、私自身は元来人と共同して儲け仕事をしてその利益を分け合うというようなことは、とかく後にしこりを残したりするので、嫌いの方でありますし、またこの洋糖株の売買は一切を永田がやったものでもありますし、さらに永田という人はその商売柄何かと目に見えない金の要る人だとも聞いていたので、私としては、この洋糖株の売買による利益の分け前などをもらう気持はなかったのであります。」との供述記載、検察官に対する同年一〇月七日付供述調書三項中、「私としては、一応最初は、その株の売買で儲かったら、利益は私と永田さんとで半分ずつにすると約束したものの、本心からそれで金儲けをしようなどとは、あまり考えてはおらなかったのです。」との供述記載がある。ところで田中の検察官に対する昭和三六年九月三〇日付供述調書一一項中、「永田から『どうも思いのほか利益が上らないので、菊池さんには利益は半々と申し上げておいたが、菊池さんには少し我慢してもらって、自分の方に少しでも余計廻してもらえるよう話してくれないか。』といわれ、菊池さんに伝えたところ、菊池さんは、そのことは私自身にその以前から申されていたのでしたが、『おれは別にあの株の売買で、初めから儲けようと思ってやったことでもないから、永田とは利益折半とはいったものの、おれはそんなにはいらない。まあ、二億の定期を貸してやったその利息位になれば、いいんだから』と申されました。」との供述記載があるが、これが菊池の捜査、公判を通じ一貫した前記供述と一致していることに照らせば、菊池としては、定期預金を担保に供したり、永田のため保証をしたりする行為は、利益の獲得を目的としたものでなく、前述のように、埼銀および平沼におかしい位協力している永田に平沼がもう少し誠意をもって心配してやったらいいではないかという憤りから出たものと認められる。もし菊池が当初より金儲けをするつもりであるなら、永田から初め洋糖株二〇〇万株を引受けてほしいと話のあった折、自分で埼銀から融資をうけて、買取ることが出来たわけであるのに、これをせず前述のように永田にこれを勧めていた事実もまた、菊池が洋糖株売買で金儲けをする意思がなかったとの証左である。
なお関係証拠に照らせば、永田に対する二億円の預金担保貸付のため担保となった高萩炭砿株式会社取締役菊池寛実名義の定期預金は、右会社が常陽銀行高萩支店より手形貸付をうけた二億円を埼銀東京支店に定期預金したものであって、この貸付金につき右会社が常陽銀行に支払った利息相当額とおおむね符合する一千万円ないし一千二、三百万円程度の金員を洋糖株売買による純利益六千万円余の中から菊池が受取ったことが認められるけれども、この事実は菊池が洋糖株売買で金儲けをする意思を初めからもっていなかったとの前記認定を妨げるものではない。
第四節 東洋精糖株式の売買の前後の事情と被告人平沼、同田中に金員を供与する相談の経緯
ここで永田が前述の融資により洋糖株を買入れてこれを売却した前後の事情を究明するに、関係証拠に照らせば、永田は昭和三四年一〇月前述の融資により右洋糖株二〇〇万株を買入れたが、その折には、東京証券取引所における洋糖株の上場停止がこれからさき二、三ヵ月中にとけ、一株二〇〇円で買入れた洋糖株を一株二五〇円余で売却し約一億円の利益をあげることができると期待していたこと、しかし永田の予期に反し、洋糖株の上場停止は昭和三五年二月八日にとけ、その後一株二五〇円位まで値があがることもあったが、証券会社筋の大口の売り物が出て値崩れし、一株二二〇円ないし二一〇円位を上下し、同年四月に高値二六五円、安値二一九円、同年五月に高値二五五円、安値二四〇円となったこと、永田は、政治献金のため金が必要となり、同年四月末より五月中旬にかけて、洋糖株二〇〇万株を数回に分け、一株二四〇円ないし二五〇円で山一証券株式会社を通じて自分の探した買主に売付けたこと、その売却代金合計四億八、四〇〇万円より売付手数料、取引税を差引いた残り合計四億八、〇〇七万四〇〇〇円が永田名義で埼銀東京支店の別段預金口座に入金されたこと、この金額より買取代金、売買手数料、印紙代、貸付金利息を差引き、六、〇九八万八、〇一〇円の純益が出たこと、この差引純益が六、〇九八万八、〇一〇円であることが同年五月中旬頃田中より永田および菊池に計算書を添えて告げられたこと、この純益が菊池の希望で常陽銀行高萩支店の高萩炭砿株式会社当座預金口座に送金され、この見返りとして右と同額の現金が菊池により準備されこれから定期預金に供した二億円の借入利息相当額一千万円ないし一千二、三百万円を差引いた金額が菊池より田中に手渡されたことが認められる。
ところで右のように洋糖株の売却によって生ずる利益の一部を平沼、田中に供与する話合いが永田と菊池の間に行われたことが証拠上認められる。すなわちこの点の証拠として、永田の検察官に対する昭和三六年九月二一日付供述調書(丙二)五項中、「最終的清算のついた頃、約六千万円の金が残ったからこれを折半し、半額を菊池さんの方に差上げたいと思うということを、私から菊池さんに申し入れたわけであるが、菊池さんは私に、『あんたは金の要る人なんだから自分は要らない。全部あなた使いなさい。』と申したのですが、なお私が重ねて『それでは自分の気がすまない。』と申したところ、菊池さんは、『あんたがそれほどいうのなら、一応私がその残った利益の半額をもらったことにして、あらためてそれを全部あなたにやることにするから、それでいいでしょう。ただその中から、一千万円とか一千二百万円とかいったのですが、それだけの金を平沼頭取と田中の方にやるようにしてくれ。』と申したのでありました。」という供述記載、およびこれに符合する永田の検察官に対する同日付供述調書(丙一)一一項、検察官に対する同年一〇月七日付供述調書四項、菊池の検察官に対する昭和三六年九月二〇日付供述調書六項の各供述記載、並びに大筋においてこれらに合致する永田、菊池の当公廷における各供述がある。これらの供述記載および供述によれば、株の処分が終って六千万円余の利益が出た後、利益折半について永田と菊池の間に話合いが行われ、その話合いは、永田の検察官に対する九月二一日付供述調書(丙二)五項中の供述記載のような内容のものであったことが認められる。
永田の検察官に対する右一〇月七日付供述調書四項には、「菊池から、『それでは金は私が一度もらったことにしましょう。しかし金はあなたがお使いください。ただ田中もこんどのことについて支店長の立場だけでなく、いろいろ心配してくれたから、あれに二、三百万円やってもらいたい。また頭取も鳥居観音や三蔵塔の問題で物入りがつづいているから、一千万円位やってもらったらまことに結構だ。』といわれたので、前の話もあったことですし、『喜んでやりましょう。』といって承諾した次第です。」という供述記載があるが、ここにいう「前の話」とは、同調書二項中、「四月初旬頃、株の処分をするにつき菊池の諒解を求めるため、菊池宅を訪ねた際、菊池から、『儲かったら、頭取に一つ位、田中君にも小遣をやったらどうだろう。』という話があったので、賛成の意を表した。」という供述記載部分にある菊池からの話を指すものである。そして、永田の検察官に対する昭和三六年九月二一日付供述調書(丙二)四項には、「処分先等も大部分きまった昭和三五年三月頃」の話として、また菊池の検察官に対する昭和三六年九月二二日付供述調書五項には、「以前洋糖株の処分を進めていた頃」の話として、永田の検察官に対する右一〇月七日付供述調書二項中の供述記載があるから、株の処分の完了前永田が菊池宅を訪れた際、菊池から、平沼、田中に対する金員の供与についていい出され、永田がこれを諒承していたことが認められ、またその時期は、株の処分にかかった初期の頃と認められるから、大体昭和三五年四月初旬頃のことと認められる。
また田中の検察官に対する昭和三六年九月三〇日付供述調書一一項、および検察官に対する同年一〇月七日付供述調書三項には、「大体株の処分の見通しのついた頃、田中を介して永田より菊池に対し、『思いのほか利益が上らないので、折半の約束だったが、自分の方へ少しでも余計に廻してほしい。平沼頭取や田中の分も八〇〇万円位にしていいだろうか。』という話があり、菊池が田中を介し、永田に、『自分の方は少くともいいから、頭取の方へはやっぱり一千万円位やった方がいいんじゃないかと思う。』という返事があった。」旨の供述記載がある。
右供述記載にある永田、菊池間の話合いは、それにさきだつ或時点において、右両名間で平沼と田中に供与される金額について具体的話合いが行われていたことを前提としていたものと認められるのであり、右に認定した昭和三五年四月上旬頃の永田、菊池の間の話合いがこれに該当するものと認められる。前述したように、永田は洋糖株売買による利益を約一億円と期待していたのであり、大体株の処分の見通しのついた頃(昭和三五年五月一〇日頃)になると、利益が約六千万円位であるとの見通しが一応立って来たと認められるから、永田から菊池に対し、「思いのほか利益が上らないので、折半の約束だったが、自分の方に少しでも余計に廻してほしい。平沼、田中に供与する額も前の話合いより減してもいいだろうか。」という趣旨の申入れが行われたとしても、おかしくない情況にあったと解せられる。
以上認定したところを綜合すれば、平沼と田中に金銭を供与する永田、菊池間の話合いは、昭和三五年四月初旬頃、菊池が平沼に一千万円、田中にも小遣を、と額を示して切り出し、永田がこれに賛成した時、同年五月一〇日頃永田が田中を介して供与額を減らしては、と菊池に相談した時、および、五月中旬過株の処分が終って利益額が確定した後、その分配に関し永田と菊池の間で相談があった時と三回にわたって行われたことが認められる。
しかし上述のような永田、菊池間の話合いにさきんじて、すでに永田、菊池より利益の一部を田中ら銀行側に供与する話のあったことをうかがわせるような証拠がある。それは田中の検察官に対する昭和三六年九月三〇日付供述調書一一項中「まだ買取った洋糖株の売買も決まっておらなかった昭和三四年一二月頃からだったと思いますが、永田さんや菊池さんは、当時はまだ金額は申しませんでしたが、『この株を売って儲かったら、君たち銀行の方へも儲けの一部を分けてやるよ。』というようなことを申されていたのであります。』との供述記載である。この点について田中は当公廷において、「検事から、貸出のときにお礼の話がないはずはない、株式の売却時より前に話があったはずだ、ときめつけられ、貸した年だろうといわれ、一二月頃でしょうと述べた。」旨供述し、右供述記載にあるような、昭和三四年一二月頃『この株を売って儲かったら、君たち銀行の方へも儲けの一部を分けてやるよ。』という話のあったことを否定する。永田、菊池も当公廷において、その頃そのような話をしたことはない、と供述し、右両名の検察官に対する供述調書中にも、その頃この話が出たことをうかがわせる供述記載は全くない。山一証券株式会社取締役社長大神一作成の東洋精糖株価表によれば、洋糖株は、昭和三三年七月二六日より昭和三五年二月七日の間上場を停止されており、東京証券取引所作成の昭和三八年七月九日付証明書によれば、昭和三四年一二月当時店頭売買の高価二一〇円、安値一九四円であったこと、および洋糖株買占の紛争が解決した昭和三四年九月には高値三七七円、安値二八七円であったのが、一〇月には高値二九五円、安値二〇〇円と下げ、さらに一一月には高値二一〇円、安値二〇八円と下降線をたどり、一月には高値二一〇円、安値一九四円と底をついたことが認められる。上場停止がいずれ解除されるにしても、いつ解除されるかの見通しがつかなかった昭和三四年一二月においては、洋糖株の株価が目のさきどう動くか予測も困難であり、洋糖株の株価が九月以降下降線をたどっていた事実を考え合せれば、一二月当時、相当期間内に売って儲かることを予測することは困難であったと認められるのであり、何らかの格別の事情のないかぎり、昭和三四年一二月頃「この株を売って儲かったら、君たち銀行の方へも儲けの一部を分けてやるよ。」といった強気なことばが出ることが考えられない情況にあったものと認められるのであり、格別の事情があったことは全証拠に照らしても認められないから、田中の検察官に対する右九月三〇日付供述調書一一項中の供述記載部分を信用することができない。
第五節 被告人永田の被告人田中に対する指示の内容
田中が菊池から株式売買の純益相当額の現金中より菊池の取得すべき一千万円乃至一千二百万円を差引いた残りの現金を受取ったことはすでに認定したとおりであるが、田中はこの金を受取ったことを永田に告げ、電話で指示をあおいだところ、永田が田中に対し、平沼および田中に供与すべき金員を控除して残金を届けるように指示したこと、田中はこの指示があったので、金一千万円を控除した残額を永田に届けると、永田は受取った現金を数えることなく、秘書にこれを保管させ、他より集めた現金と一緒にして政治献金に使ったこと、田中は永田の指示により控除した右現金を保管し、平沼にその旨を告げ、平沼の指示により金百万円を永田雅一、金三百万円を菊池寛実の名義で、玄奘三蔵法師霊骨塔建立発起人会に対する両人の寄付金に充当し、残金に関しては田中が金二百万円と金四百万円の二口の期間一年の無記名定期預金を埼銀東京支店に設定し、その旨を平沼に告げていたことは関係証拠により認めることができる。
ここで問題となるのは、田中が永田より、控除するように指示された金額に関する点である。永田は当公廷においても、検察官の取調べに対しても、「平沼に一千万円、田中に二、三百万円で、計千二、三百万円」と供述し、田中も当公廷においてはこれに符合する供述をするが、同人の検察官に対する昭和三六年一〇月一二日付供述調書七項には永田の指示は、田中の分二百万円、平沼の分八百万円の計一千万円であった、旨の供述記載がある。けれども≪証拠省略≫を綜合すれば、最終的には、菊池と永田との間では、一千万円を平沼に、二、三百万円を田中に供与するという話合いがあったことが認められる。永田が当公廷で「私のこのときの心境というものは、三千万円までの額ならば、これ、だれだれにやれ、だれだれに寄付してやれ、といったって、当然菊池さんに渡すべき金をもらったことにするから、寄付してやってくれ小遣にやってくれというんだから、なんにも疑義がないんで、このまま、先生のいわれたとおりしたということです。」と述べているようなこの話合いの時の心境と関係証拠により認められる永田の金銭に恬淡である性格に鑑みれば、菊池にいわれたとおりを田中に伝えたと考うべきであり、永田の検察官に対する昭和三六年一〇月七日付供述調書五項中の、「『菊池さんは君らのことをこんなに気をつかっているよ。』と前置して、田中に二、三百万円、頭取に一千万円やってくれと菊池にいわれたので、私も賛成した経緯を田中に伝えた、」旨の供述記載に信をおくことができるのであり、永田が田中に指示した金額は平沼に一千万、田中に二、三百万というものであったと認められる。
田中は当公廷において右供述記載に符合する供述をするが、同人の検察官に対する供述調書中にはその点についての供述記載が全くなく、田中が永田より平沼の分八百万円、田中の分二百万円、計一千万円を控除するように指示されたとの供述記載があるだけである。それは、すべて株の処分の見通しがついた頃、永田が菊池に対し、「思いのほか利益が上がらないので、折半の約束だったが、自分の方に少しでも余計にまわしてほしい。田中や平沼の分も八百万円に減らしては。」と申入れ、これに対し菊池から「自分の取り分は少くともよいから、銀行の方へはやっぱり一千万円位」と返事があり、永田が、「それでは田中の分二百万円は自分の取り分から出して、全部で一千万円やることにする。」といった、という出来事と結びついた供述記載になっている。これは、次節に述べるように、田中が検察官の取調をうけていた当時、現実に控除した金額が千二、三百万円ではなく一千万円であったということを検察官に信じてもらうよう腐心し、また金額二百万円の無記名定期預金は自己の取り分二百万円をはっきりさせるため作った旨の自供をひるがえすことが容易でなかったため、右に述べたような株の処分の見通しのついた頃の永田、菊池間の話合いに結びつけて、永田からの指示が、平沼に八百万円、田中に二百万円の計一千万円を差引くようにという趣旨のものであったと虚偽の供述をしたのではないかとの疑がある。そうなると、永田から平沼の分八百万円、田中の分二百万円、計一千万円を差引くように指示された旨の田中の検察官に対する前記各供述調書中の供述記載部分は、信用性が薄くなるのであり、さきに掲げた永田、菊池、田中の当公廷における各供述並びに永田の検察官に対する九月二一日付供述調書(丙一)一二項、検察官に対する同日付供述調書(丙二)五項、検察官に対する一〇月七日付供述調書四項、菊池の検察官に対する九月二二日付供述調書六項中の各供述記載に照らせば、永田が田中に対し平沼の分一千万円、田中の分二、三百万円を差引くように指示したと認めるのほかはない。
第六節 被告人田中の金員の収受の有無
前述のように永田から平沼の分一千万円、田中の分二、三百万円を差引くように指示されたと認められるのであるから田中がそのとおり差引いて残額を永田に届けたかどうかの点につき次に検討する。この点田中は公判廷において自己の分二、三百万円はとらず、平沼の分一千万円を引いただけである旨供述するがそれに反し同人の検察官に対する供述調書中には、「田中の分二百万円、平沼の分、八百万円の計一千万円を差引き、平沼の指示により永田および菊池の玄奘三蔵法師霊骨塔発起人会への寄付金に計四百万円を充当し、田中の分二百万円と平沼の分の残り四百万円は、定期預金にして保管していた」旨の供述記載がある。この供述記載に落ちつくまでの事情につき、田中は当公廷において、「(検事に調べられた折)実際三蔵塔に千万円来ていますから、その話の出た時、頭取の名前を出すまいと考え、私に一千万円来て、その使途は、六百万円を定期にし、残り二百万円を菊池の名で三蔵塔に寄付し、二百万円を自分が使った。と話したことがあったが結局それが災いして、全部で一千万円三蔵塔に来ている分の中に、私が使っている二百万円が含まれているということにされ、……定期預金の二百万円に結びつけられてしまった。」と供述し、「定期預金となった計六百万円は、平沼に提供された一千万円の残りで、二百万円と四百万円の二口の定期預金にしたのは、銀行員の常識に従っただけのもので、他意はない。」と弁明する。六百万円につき期間一年の定期預金を設立するにあたり、二百万円と四百万円の二口の定期預金にするのが、銀行員の常識であるかどうかはさておき、期間一年の間に、定期預金を解約する必要が生ずるかもしれないと考えられる場合、一年内に必要となるかもしれない程度の金員について一口、残金についてもう一口の計二口の定期預金を設定し、定期預金を崩し易くしておくことは、常識上も十分考えられるところであるから、二口の定期預金中一口の金額二百万円が、永田が田中に対し田中の分として差引くように指示した金額とおおむね符合する一事のみをとらえ、この二百万円の定期預金が田中のものであろうとただちに推測するわけにはいかない。
田中の検察官に対する右供述調書中の、「自分の分二百万円を差引いた、」旨の供述記載を裏づける関係証拠としては、菊池の検察官に対する昭和三六年九月二二日付供述調書六項中の、「田中が『永田さんの方からお金をいただきましてありがとうございます。』という趣旨のことを私に申したことがありました。」との供述記載があるのみであるが、右調書七項には、「三蔵塔の方にはその建設に着手したばかりの早い頃、確か、二、三百万円私の名で寄付してあるはずであります。」という供述記載があるから、この供述当時において、菊池は、三蔵塔への寄付が、平沼に提供された一千万円中より昭和三五年五月末頃払込まれたことを失念していたものと認められるうえ、その後の同人の検察官に対する供述調書中に、右六項中の供述記載と同旨の供述記載が全くないことに鑑みれば同人の検察官に対する昭和三六年九月九日付供述調書五項および検察官に対する一〇月一二日付供述調書五項に供述記載のある、「田中が私のところに来て、『菊池先生が三蔵塔の方に寄付されることになっていた三百万円は、頭取からの話で、永田さんの方から頂いた金のうちから払込んでおきましたから。』と申し、受取書を持って来てくれた」という時の話を、誤って、「田中が『永田さんの方からお金を頂きましてありがとうございます。』という趣旨のことを私に申したことがあります。」と供述したのが右九月二二日付供述調書六項中の供述記載とされていると考えられないではないから、右供述記載に全面的に信をおくわけにはいかない。
そうなると、田中が自己の取り分二百万円を収受したことについての証拠は、田中の検察官に対する昭和三六年九月三〇日以降の日付の供述調書中の、田中が永田の指示にしたがい、田中の分二百万円を含む一千万円を差引いた、旨の供述記載のみとなる。検察官としてこれらの供述を録取した証人太田輝義は、「少くとも私が取調べるようになってからは、田中が、一千万円だけ差引いて自分の分三百万円をとらなかったということを全然いっていない、」旨証言するに止り、「二百万円と四百万円の二口の無記名定期預金を作ったのは、二百万円が自分の分であることをはっきりさせるためであった、」旨の供述記載が最初にあらわれる田中の小林検察官に対する昭和三六年九月二四日付供述調書作成の際の事情を明らかにしていない。また田中の検察官に対する九月一八日付供述調書には、「差引いた一千万円中、六百万円は二口の定期預金とし、二百万円は菊池名で三蔵塔に寄付し、二百万円を株の払込み等に使ってしまった。」旨の供述記載があるが、田中は、当公廷においてこの供述記載に言及し、九月一八日の調べの折、二百万円を自分が使ったと述べたのが、「災いして、全部で一千万円きているなかに、私の使っている二百万円が含まれていることにされ、……定期預金の二百万円に結びつけられてしまった。」と供述するが、永田の指示で千二百万円を差引いた旨の供述記載のある同人の検察官に対する九月二四日付供述調書に、「二百万円と四百万円の二口の無記名定期預金を作ったのは、二百万円が自分の分であることをはっきりさせるためであった。」旨の供述記載が最初にあらわれている事情については明らかにしていない。右九月二四日付供述調書中には、「永田の指示で千二百万円を差引き、小佐野、永田、菊池の名で各百万円ずつ計三百万円を三蔵塔の寄付に当て、三百万円を現金で平沼に渡し、残り六百万円を四百万円、二百万円の二口の定期預金にした。」と供述記載があり、同人の検察官に対する一〇月一日付供述調書中には、「定期二口六百万円というのは判然していたのですが、それ以外の分については、確かにあのうちから、いくらか菊池さんらの名前で三蔵塔の寄付金に廻したという記憶があるが、その金額その他がはっきり記憶に出てこなかったことと、三蔵塔の寄付金の会計には裏経理があるということも聞いていたので、どうお話していいかと思い、悩んでいた際……検事さんが、その頃には三人の名前で百万円ずつ三百万円しかはいっていないようだと申されたので、私はそれは表の分でそういわれれば、あの時菊池、小佐野、永田の三人の名で百万円ずつ表の寄付金に当てたような気がしたので、寄付金の裏経理を隠す気持もあって、不明金六百万円のうち、三百万円は菊池、小佐野、永田の三名で三蔵塔の寄付に廻し、残りの三百万円は現金で平沼頭取に渡したなどと辻褄を合わせるため、でたらめをいってしまった。」との供述記載がある。田中の当公廷における供述中の、「お前が一番初め二百万円使っているといったのではないかというので、株の払込みに使ったといったら、これは何だと聞かれて、使ってないんですからありませんというと、結局だめで、そうしたら今度は、お前は飲み食いに使ったんだろう、めかけがいるんだろう、といわれ、いやそういうものはございません、と申し上げました。」という供述は、九月一八日の調べの折田中が二百万円を株の払込み等に使った旨述べていたので、検察官がその真偽を確かめる努力をしていたことをうかがわせるものであり、九月二四日の調べの折には、田中としては、差引いた千二百万円のうちいくらかを自分で使ってしまったというすべを失っていたと推認されるのであり、そのため、不明分三百万円を自分で使ったということなく、「三百万円は現金で平沼に渡した。」と辻褄を合わせる供述をする以外仕方なかったものと推認される。田中の検察官に対する一〇月一日付の供述調書には、さきにもふれたように、「菊池さんや永田さんの申し上げている金額と合わないためか、さらに小林検事さんから再三問いただされ、ご両人からもらった額は千二百万円だと申し上げてしまったのです。」という供述記載があり、九月二四日の調べの折、菊池や永田の供述する額に合わせるため、千二百万円をもらったと供述するに至っていることが認められるのであり、総額を千二百万といってしまい、うち三百万は現金で平沼に渡し三百万は寄付金に当てたと述べてしまうと、自己の取り分を二百万円の定期預金と結びつけて供述する以外の途は残らないということになってしまうのである。そして一度自己の取り分二百万円を二百万円の定期預金にしたと供述した田中としては、三蔵塔への寄付が菊池名で三百万、永田名で百万の計四百万であることを知り、定期預金にした六百万円と合せ一千万円だけしか差引いていないと供述する際にも、田中が当公廷で供述するように、差引いた金額が一千万円だけで千二、三百万でないことを強調する余り、「永田が『田中への分として別に二百万円自分の取り分から出すことにして、全部で一千万円やりましょう。』と述べた。」という五月一〇日頃の話合いを引合いに出し、これに符合するように平沼の取り分が八百万円、自己の取り分が二百万円で、二百万円は平沼の取り分と区別するため二百万円の定期預金にしておいた、との供述を維持したという疑いがある。田中の検察官に対する九月二四日付供述調書中には、「千二百万円を差引いてもちかえってから四、五日後、頭取室で頭取に、菊池、永田の両名が千二百万円よこした。そのうち私の持分は二百万円だといわれた、と話した。」旨の供述記載、同人の検察官に対する九月三〇日付供述調書一八項中には、「一千万円を差引いて貸金庫にしまった翌日、頭取室で頭取に、菊池、永田の両名から一千万くれるとの話で、うち二百万円は私にということなんです、と申した。」との供述記載があるが、同人の検察官に対する一〇月三日付供述調書三項になると、「前回私は、『そのうち二百万円は私にということなんです。』と平沼頭取に申し上げたといいましたが、よく考えてみると、その時私は頭取にはその話の終り位に小声で、『お二人はこの一千万円を下さる時、私の分もはいっているんだ、というようなことを申されました。』とちょっと口添えした程度で、その金額も申さなかったと思いますし、またあるいは頭取はその私の言葉を十分聞き取られなかったかもしれません。したがってあるいは頭取としては、現在なお、菊池さん、永田さんからの一千万円は全額平沼頭取お一人でもらったようにお考えになっているかとも思います。」と供述記載が変ってくる。平沼の検察官に対する昭和三六年九月二八日付供述調書一項中に、「田中から千万円位の話を聞いたが、別に田中の分として何百万円かをもらって来たというようなことを聞いた記憶がない。」旨の供述記載があること並びに証人太田輝義の証言に鑑みれば、検察官が田中に対し、「平沼は、田中の分として何百万円かをもらってきたという話を聞いた記憶がない、といっているが。」と問いただしたことは推察するに難くなく、これに対し、田中が、「ちょっと口添えした程度で、その金額も申さなかったと思いますし、またあるいは頭取は私の言葉を十分聞き取れなかったかもしれません。」と迎合的供述をしたのではないかと推測する余地がある。この迎合的とみられる供述の存在することは、田中の右各検察官に対する供述調書中の、「うち二百万円は私にということなんです、と申した、」旨の供述記載の信用性をそこなうものであり、この供述記載が、「二百万円と四百万円の二口の定期預金を設定したのは、二百万円が自分のものであることをはっきりさせるためであった、」という供述記載が最初にあらわれた田中の検察官に対する九月二四日付供述調書中に、最初にあらわれていることに鑑みれば、田中の検察官に対する九月三〇日付供述調書に録取されている供述をするに当り、差引いた金額が一千万円で、千二、三百万円ではないことを強調する余り、「永田が、『田中への分として、別に二百万円自分の取り分から出すことにして、全部で一千万円やりましょう。』と述べた。」という話を引合いに出し、これに符合するように、平沼の取り分が八百万円、自分の分が二百万円で、二百万円は平沼の取り分と区別するため二百万円の定期預金にしておいたという供述を維持し、さらにこれに符合する、「うち二百万は私にということなんです、と平沼に話した。」という供述を維持したのではないかと疑う余地が十分ある。田中は当公廷において、「五月一七日の日に計算書を永田さんのところへお持ちした折、永田さんから三蔵塔に一千万、君に小遣を二、三百万やれ、と菊池さんがいっているという話を聞き、……とんでもない話でございます、といって店に帰った。二四日金が参りましたので、永田さんに電話し、いかがいたしましょうというと、三蔵塔に千万、君にこの間いったとおり、二、三百万とっとけ、残りは全部持ってこいと指示をうけたが、三蔵塔の一千万だけしか引かなかった。永田さんのところへ残金を届けた折、私は、何とかいわれ、しかられると困ると思いましたから、大急ぎで置いて、そしてほかの話題にすぐ移るように自分から努力しました。」と供述しており、少くとも右供述中、「(自分の分二、三百万円を引かなかったので)永田さんのところへ残金を届けた折、私は、なんとかいわれ、しかられると困ると思いましたから、大急ぎで置いて、そしてほかの話題にすぐ移るように自分から努力しました。」という供述部分は、にわかに虚構の供述とは考えられないのであり、田中の検察官に対する供述調書中の、「差引いた千万円の中には、自分の分二百万円がはいっていた。」という供述記載部分については、すでに述べたように、その信用性について疑いをいだく余地がないとはいえないから、当裁判所は、田中が永田の指示に従い、自己の分二百万円を差引いたという点については、証明が十分でないと解する。
第七節 四億円融資についての被告人平沼、同田中の好意ある取計らいの存否
ここで本件四億円の融資が、平沼、田中ら銀行側の永田に対する好意ある取計らいとみられるかどうかの点を検討しよう。
一般に個人が銀行から融資をうける場合、その難易は、
(イ) 金融政策の面において金融引締めが行われているかどうか。
(ロ) 銀行側の融資資金が逼迫しているかどうか。
(ハ) 融資をうける金の使途により、回収が困難であるかどうか。
(ニ) 融資をうける金の返済、期限が長いかどうか。
(ホ) 融資をうける者の資力、信用が十分ないかどうか。
(ヘ) 貸付額の全額につき、いわゆる丸貸しとなる通常の担保付手形貸付であるか、または、貸付額の全額につき丸貸しとならずにすむ預金担保付手形貸付がどの程度含まれているかどうか。
(ト) 貸付に対する担保が十分であるかどうか。
(チ) 融資をする見返りとして融資額以上の預金がとれるかどうか、すなわち融資にともなういわゆるうまみが存在するかどうか。
等の事情を綜合判断して決せられるのであって、融資をうけることが困難である場合には、頭取や支店長の好意ある取計らいの介入する余地が多く、融資をうけることが容易である場合には、頭取や支店長の好意ある取計らいの介入する余地が少くなる。そこで本件四億円の融資に関し、永田が平沼、田中より好意ある取計らいをうけていたかどうかを判断する上で重要な基準となる本件融資の難易を証拠によって究明する。
(イ) 第九回銀行局金融年報昭和三五年度版によれば、「昭和三四年四~六月は、経済が一段と拡大のテンポを早め、……六月には、大企業向貸出の増加が顕著になり、……七月は格別に季節的な資金需要としては目ぼしいものがないのにかかわらず、依然大企業の資金需要は増大の傾向が看取される情勢であり、政府並びに日銀の指導と相まって、七月以降銀行の控え気味の貸出態度が続いた。四~六月の急テンポの経済拡大は、その後全体としてやや弱まったものの、拡大基調が変わることなく、加えて第3/四半期の財政散超期を控え、資金の需給両面の拡大がさらに景気を一段と刺激することになるかもしれないと心配された。物価はおおむね安定的で、国際収支の黒字の巾は四~五月縮小のあと、六、七、八月と再び拡大する情勢にあり、当面の経済の拡大は別に懸念すべき状態にはないが、経済の急上昇がこのまま続くと、需給のバランスが確保できるや、必ずしも不安なしとしないし、加えて第3/四半期の金融緩和期がこのような景気上昇に共鳴作用として働かないとはいえないので、経済の行き過ぎに対する予防的措置として、同年九月一一日準備預金制度の発動が実施されることになった」こと(二七~二八頁)、「こうした背景のなかで、銀行としても全体の貸出増加額を抑える一方、増加の傾向にあった不要不急の融資についても自主的に抑制の方針を再確認することが時宜を得たものと考えられ、九月一四日資金調整委員会において、『昨今の情勢よりみて、資金需給の見通しは楽観し難いものがあり、銀行としてはいっそう資金の重点的かつ効率的運用を期するため、不要不急融資については今後一段と抑制努力を払う必要があるものと考えられる。したがって、今後いっそうその抑制の実をあげるよう努める』趣旨の申合せが行われた」こと(三六頁)、が認められ、その点から昭和三四年九~一〇月頃は、景気の過熱を警戒する配慮が金融政策面にもあらわれてきた時期といえるが、右金融年報によれば第3/四半期(一〇月~一二月)の経済情勢としては、「産業動向は依然拡大基調を続け、……製品需給は総じて安定した拡大をとげ、前期に引続き堅調な最終需要が、この拡大を需要面から支え、国内需要は堅調であったのに加えて、輸出面でも世界景気の相変らぬ好況を反映して、一〇~一二月間の通関実績は戦後最高を記録した、」こと(四~六頁)、銀行貸金の面においては、「第2/四半期七、八、九月とかなりの増加を示したが、日銀の窓口指導の効果もあって、銀行の貸出態度が抑制的になった事情や、九月にはいり準備預金制度が発動され、一段とこの抑制的態度が強められた結果、六月中に予想された程の増加率を示さなかったこと、第3/四半期にはいって貸出増加額は急増を続け、期中増加額は三、八三四億円と前年同期を三五パーセント上廻り、貸出の増勢は七~九月頃に比べ一段と強まった、」こと(一四~一五頁)が認められるのみならず、証人岩佐凱実の当公廷における証言(被告人永田以外のものについては、第五三回公判調書中証人岩佐凱実の証言記載)によれば、昭和三四年九月一〇日頃は、「金融を急に引き締めるとかいうような情勢ではなく、とくに金融がきゅうくつであるとか金融を引き締めているとかいうことではなく、普通の状態であったといえる、」情況にあったと認められる。
(ロ) 銀行側の融資資金の状況に関しては、前記金融年報によれば、「地方銀行の資金ポジションが六~九月の間悪化したことが認められる、」(一五頁)が供米代金の支払いが一〇~一一月に大巾に進んだことは右年報記載(九頁)のとおりであり、≪証拠省略≫を綜合すれば、昭和三四年一〇月当時は、供米代金が預金としてはいった後であり、埼銀としては、貸付資金が逼迫する状況にはなかったものと認められる。
(ハ) 融資をうける金の使途が洋糖株買取にあったことは、証拠上明らかであり、田中の当公廷における供述によれば、株式買取資金は運転資金中甲第一順位のものであったことが認められ、関係証拠に照らせば、昭和三四年一〇月当時、東洋精糖株式会社の業績、資産状況は良好であったと認められ、したがってこれらの点から買取られる洋糖株は高度の流通性ある株式であり、そのため融資をうける金の使途による回収の困難は全くなかったものと認められる。
(ニ) 貸付禀議書綴(昭和三七年押第一一三四号の八三)中の禀議No.32/1の貸付禀議書によれば、返済期日は昭和三五年三月三一日となっており、約六ヵ月の期限の貸付であるから、返済期限の上では短期貸付に属するものであることは明らかである。
(ホ) 融資をうける永田は、旧来埼銀東京支店と取引があって、一億円程度までの貸付をうけていたことはあったが、四億円の融資ということになると、平沼も永田の資産、信用に不安を感じ、これも手伝って平沼としては永田に四億円を担保付手形貸付の形で貸付けることに乗り気がなかったが、菊池が平沼を訪ね、二億円の定期預金を担保に提供し、四億円全額に保証をする旨を申出たので、平沼も借主の資産、信用に対する不安が解消したことは、関係証拠により認められる。したがって融資をうける者の資力、信用の点も十分であったと認められる。
(ヘ) 平沼が永田への四億円貸付に当初乗り気でなかったのは、初めの田中の話では、買取るべき株式のみが担保となる貸付であったため、四億円全額が丸貸しの形のものであったことにも起因することが証拠上認められる。菊池より金二億円の定期預金を担保に提供する旨の申出をうけて、平沼が永田への四億円貸付につき諒承したのは、融資すべき四億円中、半額の二億円に見合う定期預金が担保になれば、銀行としては二億円の自己資金を加えるだけで四億円の融資をすることができる有利な貸付となったことに基づくと解される。
(ト) 四億円の半額二億円については、定期預金担保貸付であり、残り二億円については、洋糖株二〇〇万株(相保として差入れた当時の価格四億円)が担保となったもので、加うるに四億円の全額について菊池の保証があったのであるから、四億円の貸付に対する担保は十分であったとみられる。
(チ) 四億円融資にあたり、埼銀としては、担保に供された二億円の定期預金の設定をうけたほか、右融資にからんで山一証券より二億円の預金、東洋精糖株式会社よりの相当の預金の獲得を期待していたことは、田中の当公廷における供述により認められる。
以上(イ)ないし(チ)について検討したところを綜合すれば、埼銀より永田への洋糖株買取り資金四億円の融資は、いずれの点よりするも、無理な融資とは認められないのであり、この点からみて平沼頭取および田中支店長が、融資そのものについて好意ある取計らいをする余地があったとは認められない。
つぎに本件融資の申込みが昭和三四年九月中旬過頃であり、金二億円の担保付手形貸付に関し埼銀東京支店よりの禀議申請が一〇月一日になされ、頭取決済が一〇月三日、貸付が一〇月八日であったので、二億円についての担保付手形貸付が早期に実現したことになるが、この手続の進め方が、平沼、田中の好意ある取計らいになるかどうかを検討する。前記貸付禀議書その他の関係証拠によれば、右二億円は埼銀東京支店の貸付枠の内から貸付けられたもので、この貸付のため東京支店の貸付枠がふやされたことを証する証拠はなく、したがってこの貸付枠の点で好意ある取計らいがなされたとは認められない。禀議申請より三日にして頭取の決裁がなされているが、これは禀議申請以前に菊池が平沼に会い、二億円の定期預金を担保に供し且つ四億円全額につき保証することを申出て、融資について平沼の諒承をとりつけていたこと、田中の当公廷における、「相手方が実際入用な時に情のこもった金を使って頂きます。」「常にお客様からお話があれば、十日にほしいということなら七日か八日、月末にほしいということなら二四、五日には間に合せできるように内部処理を全部できるように係にも申しつけておりますし、私のやり方をみんな呑込んでくれましたので、全部そういうような方式で事務を処理させて参りました。」「永田さんのお話を綜合すると、お急ぎのように見受けられたので……早くご返事を申上げて、東洋精糖の取引をとって頂きたいというようなことで、至急の取扱をしました。」との供述、その他の証拠から認められるように、田中は日頃から仕事にきわめて熱心で、客の気にいるように事務をはこんでいたのであって、本件融資の事務についてもその例外ではなく、貸付予定日たる一〇月五日に間に合うよう、禀議申請書に「至急」の表示をし、禀議申請をしたことについて関係部課長、常務および頭取、副頭取に事情を話しに行き、部内手続の円滑な遂行をはかったことなどに基づくものと認められるが、これのみをもってしては平沼、田中が、本件二億円の担保付手形貸付の促進に好意ある取計らいをしたとは解されない。他に好意ある取計らいをしたことを証する証拠はないから、結局、貸付面においても、手続面においても、平沼、田中が永田に対する二億円の担保付手形貸付に関し、好意ある取計らいをしたと認めるに足る証明は十分でない。
第八節 被告人平沼個人への金員の供与の有無
永田より指示を受けた田中が差引いた金額が一千万円を超えた事は、証拠上認められないのであり、さきに述べたように、田中が自分の分として二百万円を差引いたことの証明が十分でないとなると、田中が当公廷において供述するように、差引いた金額は一千万円であって、その中に田中の分は、はいっていなかったと認めるのほかはない。
さて永田は、当公廷において、「菊池から一千万円ほど寺に寄付してやってくれ、それを、平沼に渡してやってくれ、といわれたので、田中に、おれの取分からその一千万円の寄付の金を平沼さんに渡してやってくれと話した。」「その寺に渡す一千万円は、平沼さんを通して渡した方が、平沼さんが願主ですから、おそらく菊池さんの心境としては、顔がよくなるということではないのですか。」「だから菊池さんがその寄付は寺にやる、金は、平沼さんにやってくれ、とこういったと私は解釈している。」と述べ、永田が一千万円を、平沼に渡すよう、田中に指示したが、永田としては、この一千万円の帰属する相手方が、三蔵法師霊骨塔建立発起人会、ないしは宗教法人鳥居観音であると解していたという趣旨の供述をする。また菊池は、かねてから鳥居観音の境内に禅の修業場を、作ろうという気持があり、その金として「玄奘三蔵の方に一千万円やってくれ。」と永田に頼んだものであって、この金の帰属する相手方が、宗教法人鳥居観音、玄奘三蔵法師霊骨塔建立発起人会を一括した、菊池が「平沼山」と呼ぶものであるという趣旨の供述をする。
これらの供述の内容が真実であるかどうかを究明するため、まず菊池と永田の間で、右一千万円を、平沼に渡すことにつきどんな話合があったかについての右両名の検察官に対する供述調書をみることにする。
この点永田の検察官に対する昭和三六年九月二一日付供述調書(丙一)一一項中には、「平沼は、非常な信心家で……、名栗に鳥居観音を建て、参拝所だとかその他の建物もすべて自費で建てたのでありますが、ちょうど昭和三四年から五年にかけては、その竣工期で、大分金がかかったとかいっていたので、私と菊池さんとの話合いで、『平沼頭取も鳥居観音を建てたりして、相当の金を使っているらしいので、もし株の売買で金が儲ったら、そのうち一千万円位平沼にやろうではないか。』という話を以前にしていたので、」「(利益分配の話合いの折)菊池さんは、『それでは一応自分がもらったことにして、最初あなたと話合ったとおり、埼銀の平沼頭取は鳥居観音の建設に一億円かかったとかかかるとかいっているようだから、そのための費用ということで平沼頭取にやったり、また田中にも礼をやらなければならないだろうから、そうした費用ということで、その中から金を出して平沼や田中にやってくれ。』と申されました。」との供述記載があり、菊池の検察官に対する同年九月二二日付供述調書五項中にも、これに沿うように「株の処分を進めていた頃、私は永田に『平沼頭取も熱心な観音信者で、名栗に観音堂を建てたりして、相当な出費をしているようだから、この株の売買で儲ったら、一千万円位平沼頭取にやろうではないか。』と話し、永田もこれを了解した。」との供述記載がある。したがってこれらの供述記載から、菊池と永田の間で「鳥居観音を建てたりして、物要りのようだから、その費用ということで平沼に一千万円やろう。」という話合いが行われたことが認められるが、右両名の間で、これ以上詳細な会話がかわされたことを証する証拠はない。
菊池の検察官に対する昭和三六年九月二二日付供述調書七項中、「平沼頭取は熱心な仏教信者で、私費を投じて、そうした御堂等の建立に当っているような人であり、私もまた観音信者でありますし、平沼頭取にも、いろいろ世話にもなり親しくつき合っておりましたので、当てにしていなかった洋糖株の売買で儲けが出たその機会に、その一部をそれら仏堂の建立費にでも当ててもらおうと思って、永田を通じてやってもらったのです。……(前回)田中にお礼として、六百万円やったというようなことを申したのも、たとえ観音堂の建設のためであったとしても、平沼頭取に金をやったというようなことを申せば、これまた平沼に迷惑がかかると考え、その点を隠すため、田中に六百万円で、残りは他の人たちだと申し、お手数をおかけした。」旨の供述記載からすれば、菊池としては、洋糖株の売買で儲けが出たその機会に、自分も観音信者であったので、仏堂の建設費に当ててもらうつもりで、一千万円を永田を通じ平沼に渡したというのであり、これは菊池の前記公判廷における供述と大筋においては一致する。
平沼に渡された金を「平沼への寄付に当てる金」という表現で、あらわしている供述記載が、永田の大田検察官に対する昭和三六年九月二一日付供述調書一四項にみられるが、この表現につき証人太田輝義が当公廷において、「要するに平沼被告人がもらった金を全部ふところに入れて使ってしまうというのではなくて、三蔵塔にゆくだろうということは、十分永田被告人としても認識しておったはずです。だから、永田からも知らず知らずに寄付ということばが出たのかもしれません。」と証言していることに照らせば、永田も右一千万円を、終局的には寺への寄付と理解していたと考える余地もないわけではない。
したがって一千万円の帰属する相手方は、平沼個人ではなく、宗教法人鳥居観音ないしは玄奘三蔵法師霊骨塔建立発起人会であるという永田、菊池の前記公判廷における供述を、措信することができないものとして、ただちに斥けるわけにはいかない。
菊池の検察官に対する右九月二二日付供述調書五項中には、前示のように「株の処分を進めていた頃、私は永田に、『平沼頭取も熱心な観音信者で、名栗に観音堂を建てたりして相当な出費をしているようだから、この株の売買で儲ったら、一千万円位平沼頭取にやろうではないか。』と話し、永田もこれを了解した。」という供述記載があるが、これに続いて、「いずれ洋糖株の売買の精算が済んで、儲けが出たら、そのお礼を兼ねて、前述の二人(平沼および田中)に金をやろうという話合いができていたのであります。」という供述記載があるから、右一千万円を謝礼を兼ねて平沼個人に供与する気持を菊池がもっていたのではないか、と疑われるのであるが、菊池が洋糖株の売買を共同事業として行ない、これにより金儲けをしようと考えていたと認め難いこと、並びに、四億円の融資が無理な融資であったとは、いずれの点からも認め難いことは、すでに認定したとおりであり、加うるに、菊池は、当公廷において、右供述記載の点につき、「埼玉銀行の平沼さまに、いかにも一千万円を職業がらやったような意味にとれる文章です。……この点がこれで困ると、……洋糖株の売買で儲けが出た機会に、これの一部を仏堂の建設費にあててもらいたいと思って、永田さんを通じてやってもらった、という文章で終る供述記載部分(右検察官に対する供述調書一三枚目六行より七項末まで)を書き加えてもらった、」旨供述し、右検察官調書を作成した証人太田輝義の当公廷における証言中に菊池の右供述と積極的に牴触する供述部分のないことを併せ考えると、「お礼を兼ねて平沼に金をやろうという話合いができた。」という右供述記載部分だけでは、未だもって菊池が前記一千万円を平沼個人に供与する気持をもっていたと合理的疑を超えて認定するには、十分ではない。そして菊池が右一千万円を、平沼個人に供与する気持を永田に表示したことを証する証拠、並びに菊池が田中および平沼に右一千万円の供与に関し直接話をしたことを証する証拠は全く存在しないのである。そこでこれより証拠上、菊池から一千万円の供与について話を切り出され、これに賛成した永田が菊池の話をどのように諒解していたかを認定し、これと、菊池の検察官に対する前記供述調書中の「お礼を兼ねて平沼に金をやる、」旨の供述記載とを綜合することにより、菊池が一千万円を平沼個人に供与する意思をもっていたと認定することができるかを審案する。
この点についての証拠としては、永田の検察官に対する昭和三六年一〇月七日付供述調書七項中「かように平沼頭取に金をやった私の気持は、菊池さんからきっかけをつけられて、平素から取引の面で世話になっていることだし、洋糖の問題では、四億円の融資がついたればこそ、私の面目もたち、その結果これだけ儲ったので、いささか謝意を表したのです。」との供述記載と検察官に対する同月一〇日付供述調書三項中、「平沼頭取についても、その素朴な人柄には好感を持っていましたし、平素金融面では何かとお世話になっており、四億の融資についても私からとくに頼んだことはないにしても、頭取の決裁なしにはできない金額の融資を受け、それが基で利益を上げたところで、菊池さんからいい出されたので、そうした感謝の微意を表したということです。」との供述記載があるだけである。さきにも認定したように、永田は、菊池の保証があったため四億円の融資が簡単にはこんだものと認識し、その反面、最初平沼が株式担保で四億円融資することに乗気でなかったのに、菊池が二億円の定期預金を担保に入れ且つ四億円全額について保証することを申出て初めて平沼を説得することができ、かように菊池が平沼の諒解をとりつけていたからこそ禀議手続が円滑に進んで禀議書提出より一週間ほどで貸付が実現されたことについて全く認識を欠いていたのであるから、永田としては、菊池からいい出されて初めて平沼に金員を供与する事を考えるに至ったのも当然である。そして菊池は永田に対し、「鳥居観音を建てたりして、頭取も物要りのようだから、儲ったら一千万円位やろう。」と切り出したことは、すでに認定したとおりであり、これ以上に詳細な会話がかわされたことについての証拠はないが、永田としては、菊池と同様に、平沼が鳥居観音や三蔵塔建設に多額の金を使っていたことをよく知っていたことは、証拠上明らかに認められる。このような状況の下において、永田が平沼個人に謝礼をやる意思をもっていたとの事実が認定されるためには、永田の検察官に対する前掲の各供述調書中の供述記載に加え、少くとも「被告人平沼個人にやる謝礼であるから、平沼が何に使おうと自由である。」趣旨の供述記載が存在することが必要である。これにつき証人太田輝義は、当公廷において、「確か私の調書にも……念を押してききました。平沼さん、何に使ってもいいんですね。それは、人にやったものですから、平沼が何に使おうと勝手ですよ、そういう答だったと思います。」、「そのものずばりでは出ておらないようですが、九月二一日のあとの方の調書の六項に、その趣旨がのっていると思います。」と証言するが同証人が録取した永田の検察官に対する九月二一日付供述調書(丙二)六項中にはもちろん、その余の検察官に対する供述調書中にもそのような趣旨の供述記載がないのであり、また当然の事ながら、永田の供述内容を述べている右証言は、その立証趣旨からいってもまたその内容が伝聞供述であることからいっても、実体の証拠として、これを用いることは許されない。したがって永田の検察官に対する前掲の各供述調書中の供述記載は永田が平沼個人に謝礼をやる意思をもっていたことを認定する証拠としては、十分なものではない。
そうなると、菊池の検察官に対する前掲供述調書並びに永田の検察官に対する前掲各供述調書中の供述記載を綜合しても、菊池および永田が前記一千万円を、平沼個人に供与する意思をもったことを合理的疑を超えて認定するには十分でない。
永田は、さきに認定したように、田中に指示して平沼に一千万円を渡させているが、永田が平沼に、この一千万円のことで直接接触したことを証する証拠はない。そしてまた、田中の当公廷における供述はもちろん、検察官に対する供述調書中にも、右一千万円が永田から平沼個人への謝礼である旨永田が田中に伝えたとの供述ないし供述記載はない。もっとも田中の検察官に対する昭和三六年一〇月三日付供述調書四項には、「永田さんや菊池さんが、その四億円を借受けてやった東洋精糖株の売買で儲けた金の一部を、お礼として平沼頭取に差上げる気持になったのは、少くとも四億という巨額の資金を、実際にいつ買取った株式が売れ、回収ができるようになるのか、悪くすれば回収が長引くようになりかねない株式売買の資金として貸付けてくれたというそのことのお礼と、さらには、従来から、日頃埼銀からの融資等で平沼頭取のお世話になっているということや、今後ともよろしくという意味で、それらのお礼を兼ねて、平沼頭取に儲けの一部を差上げる気持になられたものと思います。とくに永田さんにしても、菊池さんにしても、この東洋精糖株の売買というのは、御両人本来の事業ではなく、いわば、個人的な、小遣銭稼ぎのようなもので、四億円もの金を貸付けてもらったお蔭で思わぬ儲けをした、というのが実情でしょうから、そんな気持もあって、こんな機会に、こんなことで儲けた金でお礼をしようと考えられたものと思います。しかもちょうど平沼頭取は玄奘三蔵塔の建設を発願し、それで、大分平沼さん自身金を使われてもいられたことは、永田さん、菊池さんも、その玄奘三蔵塔建立の発起人や理事に名を連ねてよく知っておられたので、そんな関係もあって、頃合いもよいというところから、お礼を出されたものと思います。」との供述記載があるが、この供述記載自体からもわかるように、田中が推測したところを、「思います」という表現で述べた記載であり、右一千万円が、平沼のどのような行為に対する謝礼であるのかに関して、このような推測供述以外田中の検察官に対する供述調書中に見当らないことに照らせば、永田が田中に対し、一千万円が平沼のどのような行為に対する謝礼であるかを話した事実があったとは認め難いのであり、田中の検察官に対する右一〇月三日付供述調書四項中の前記供述記載は、田中が単に永田や菊池の気持を推測して述べた記載と考えられるだけである。このような推測は、具体的事実に基く推測である場合もあり、また具体的事実には基かずして、銀行員である田中が自らの地位、立場に立ってした単なる臆測である場合もあるのであり、そのいずれかであるかについては、他の証拠に照らしても、これを判定することが困難である。
平沼に渡すように永田に指示された一千万円に関し、田中が平沼に対して伝えた話の内容につき、田中の検察官に対する昭和三六年九月三〇日付供述調書一八項には、「五月一五日頃平沼頭取に、『菊池さんと永田さんが洋糖株の売買で儲けたうちから、頭取と私にお礼として分け前をくれるような話をしておられました。頭取さんも三蔵塔のことなどで何かと物要りだろうから、というようなことをいっておられました。』と報告した。……五月二四、五日頃菊池さんのところから届いた現金から一千万円を差引いた翌日、頭取に『菊池さんと永田さんが例の洋糖株の利益金のうちから一千万円お礼にくれると申されました。』と伝えた。」旨の供述記載がある。これによれば、田中から平沼に、「菊池と永田が洋糖株売買の利益金のうち一千万円をお礼としてくれる。」旨、並びに「菊池と永田から、平沼も三蔵塔のことなどで物要りだろうからという話があった。」旨、話したことが認められるが、さきにも述べたように、一千万円は洋糖株買取資金の融資で世話になった謝礼として平沼に供与されるとの田中の認識そのものが、菊池や永田から聞いた具体的な話に基く推測として生じたものか、あるいはまた菊池や永田から聞いた具体的事実に基づかずして田中が自らの銀行員としての地位、立場からした、菊池、永田より一千万円を平沼に渡すよう指示されたのは、菊池、永田が洋糖株の買取資金の融資で世話になった謝礼として平沼個人に供与するものであるとの臆測から生じたかは、判定するに十分な証拠がない。平沼の検察官に対する昭和三六年九月二八日付供述調書一項および、検察官に対する一〇月五日付供述調書一項中には、「私は東洋精糖の件の貸付で銀行に世話になったからという意味の金では、これを頭取として、わたくしすることはできないと思いました。」旨の供述記載があるけれども、菊池または永田から直接平沼にこのことにつき話があったとの証拠のない以上、この供述記載は、平沼が間にはいった田中の話を聞いて、平沼が銀行員という立場で考えたことを述べた供述記載にすぎないと認められるのであり、しかも一千万円が洋糖株買取資金の融資で世話になった謝礼として平沼に供与されるものとの田中の認識は、前述のように菊池および永田が右一千万円を平沼個人に謝礼として供与するという考えであったかを決する上に、支配的な働きをするものでないと認められるから、平沼の検察官に対する右供述調書中の供述記載も菊池、永田がどのような考えをもっていたかを判断するに支配的に役立つものではない。
永田、菊池と平沼との間には、銀行業務の関係のみでなく、銀行業務を離れた宗教上の交友関係もあったことは、証拠上明らかであるから、以上述べたように、一千万円が洋糖株買入資金の融資に関し世話になった謝礼として平沼個人に供与されたという明確な証拠が十分でない本件において、ただ疑わしいというだけで、本件の一千万円を職務に関し、平沼個人に供与された謝礼であると、たやすく認定するわけにはゆかない。
これを要するに、永田、菊池と平沼の間における融資にからむ贈収賄の本件公訴事実については証明不十分というほかはなく、従って、これを田中が幇助したとの公訴事実もまた証明不十分である。
第九節 被告人田中への金員供与の申込の趣旨
田中が、永田より指示された自己の取分二、三百万円を差引いて収受したことの証明が十分でないことについては、第六節で述べたとおりである。したがってこれに対応して、永田が田中に対し、右金員を供与したことの証明も十分でないといわなければならない。
ところで昭和三八年法律一五九号附則三項経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律五条一項には、賄賂の供与のみならずその申込をも処罰する旨の規定があるから、さらに進んで永田が田中に二、三百万円を差引いて収受するように指示した行為が賄賂の供与の申込にあたるかどうか、したがって二、三百万円を差引いて収受させる趣旨いかんを検討する必要がある。
まず、永田が田中に対し、二、三百万円を差引いて収受するように指示することにつき、永田と菊池の間に意思の連絡のあったことは、証拠上認められる。
菊池は当公廷において、「田中に二、三百万円やるという話は、本件四億円の融資とは全然関係がない。昭和二九年から数年の間に、東北砂鉄株式会社の株式売買につき、田中が銀行の職務とは全く関係なしに協力してくれたことがあり、古田さんと共同で五億円位儲けたことがあり、その折お礼をやるといったが、田中が受取らなかったので、いつかの機会に何とかしてやろうと考えており、洋糖株売買で儲けの出た折、永田さんから渡したなら、田中が受取るのではないかと考え、田中に二、三百万円やってくれと申した」旨を供述し、永田は当公廷において、「菊池さんから、永田君、この際あなたも田中を小使のように使っているし、私も小使のように使っている。私とあなたの間の連絡は、田中がやっておるのだから、この際二、三百万円小遣をやって下さい、といわれて賛同した。田中を私的サービスに使っているから、小遣をやろうとしたもので、四億円の融資とは関係がない。」旨を供述する。
ところが、永田の検察官に対する昭和三六年九月二一日付供述調書(丙二)四項中、「大体株式の処分先も大部分定まった頃、『田中にもいろいろこの融資では斡旋してもらったり世話してもらったりしたんだし、支店長位では大した機密費もないんだろうから、やはり今度儲ったら、その内から二、三百万円田中にやろう。』という話合を菊池との間でしていた。」旨の供述記載、検察官に対する右同日付供述調書(丙一)一一項、一二項中、「菊池さんから田中にも礼をやらなければならないだろうと話があったので、田中をよび菊池さんにいわれた額をやり、『このうち三百万円は君への謝礼だから君の方で取ってくれ、残りは平沼さんの方にやってくれ。』と申した。」旨の供述記載があり、菊池の検察官に対する同年九月二二日付供述調書五項六項中にも、「洋糖株の処分をすすめていた頃、私が永田に……『田中にもこの株の引取りや売渡その他四億円の貸付等でいろいろ面倒をかけ世話にもなったんだから、田中にも三百万円位お礼としてやらなければならんでしょう。』という話をし、永田もこれを了解した。」、「利益金の半分を私に取ってくれといってきた時、私は永田に、『自分はその分け前はいらないから、その代り別に話合っていたとおり、平沼頭取に一千万円、田中に三百万円やるようにしてくれ。』と申した。」という大筋において右永田の供述記載と合致する供述記載があるが、これらはすべて永田、菊池の公判廷における前記各供述と全くくいちがっている。
そして永田の検察官に対する昭和三六年一〇月一〇日付供述調書三項には、「田中支店長に金をやったことはまちがいありませんが、これをやる気になった動機はときかれますと、それは菊池さんからいい出されて、私がそれに賛成したということです。」との供述記載があり、これによれば、田中に金をやる話も平沼に金を渡す話と同様、菊池が切り出したものと認められるが、他方田中の検察官に対する昭和三六年九月三〇日付供述調書一二項、検察官に対する一〇月七日付供述調書三項中の、「五月一〇日頃、菊池さんから永田さんへ私を通じて、『銀行の方へはやはり一本の一千万円やるようにしましょうよ。』と申されたら、永田さんが『それじゃ、田中君の分として別に二百万円おれの取り分から出すことにする。』と申された。」との供述記載に照せば、永田が、洋糖株売買による儲けの自分の取分中からでも、田中に二百万円位をやろうという気持があったことが認められる。
永田の検察官に対する昭和三六年九月二一日付供述調書(丙一)一一項、一二項、検察官に対する右同日付供述調書(丙二)四項ないし六項中には、「田中に礼を、」という供述記載はあるが、「田中に小遣を」という供述記載はない。しかし永田の検察官に対する昭和三六年一〇月七日付供述調書四項中の「前の話もあったので、」という供述記載にある「前の話」の内容を述べた同調書二項中には、「昭和三五年四月初頃菊池さんから、『儲ったら頭取に一つ位、田中君にも小遣をやったらどうだろうか。』という話がありました。」旨の供述記載があって、ここには「田中君にも小遣いを、」という供述記載があるし、また、永田の取調べに当った証人太田輝義は、永田の検察官に対する右九月二一日付供述調書(丙二)の録取時の永田の供述内容につき、「永田は、『経済罰則整備ニ関スル法律があるのは知らなかった。銀行員も普通の会社の職員もみな同じだと思った。世話になれば、これは小づかいやるのは当り前だ。』と言っていた」、「永田の供述の基本的なものは、田中に対しては一つの謝礼として、小遣銭をやるという考え方なのです。……永田のことばのニュアンスの中には、田中に対しては、くれてやるという考え方があるわけです。」と証言するのであるから、永田が検察官に対し、「田中に小遣をやる。」ということばを使って供述したと認められる。ただ検察官に対する九月二一日付供述調書(丙一および丙二)には、前述のように「小遣を、」ということばを使って述べた記載がない。この点につき証人太田輝義は、当公廷において、「田中に対する分は、こういわなかったですか。田中が平素銀行の仕事を離れて菊池や永田のために使い走りをしてくれた、いろいろ私用で手伝ってくれて、いわゆる秘書役のようなサービスをしてくれるので、株で儲ったこの際に、田中にお小遣をやったにすぎないという趣旨のことを述べなかったですか。」との問に対し、「そういう趣旨のことも述べたことがあったように記憶します。ただその時、銀行員としてではなくてどういうことなんですか、と私は問いただしたはずです。そうしたら、担保の株を売ってとりにやったり、計算書を作ったり、何かするので、それは銀行員としてじゃないですよ、そんなことは支店長やらなくてもいいことですからね、とこうおっしゃった。そこで銀行員としてではなくて秘書的なことというのはどういうことですか、ということを私は永田にきいたはずです。」、「それに対しては、今申しましたように、何も支店長が担保の株券の引渡しにあたったり、計算書まで作って、私に持って来たり、そういうことまでしなくてもいいでしょう。そこまでやってくれたんですから。これは銀行員としてのサービスじゃないか。それはそうですけれども。まあ、そんなことまで、支店長自身がやらなくてもいいことまで、いろいろやってくれましたし、というようなこともいっておりました。ですから永田の考え方としては、そういうことはサービスなんだ、というふうに考えたんだろうと思うんですがね。」と答え、さらに「その銀行員の仕事と離れたいろいろのサービスという例として、たとえば、永田が出張する際にでも、飛行場の送り迎えをしてくれるとか、あるいは会社の秘書がやるようなことを、いろいろな手伝をしてくれたり、調べ物があると、永田の方からたのんで、こういうことを調べてくれというようなことに応じて、調の結果を持って来たり、いろいろ手伝をしてくれました、というような例はあげませんでしたか。」との問に対し、「そういうことは申しませんでした。私がそれじゃ、秘書的なサービスというのはどういうことですか、と聞きましたら、さきほど申しましたように、何も支店長、自から担保の株券を受け渡したりしなくてもいいだろうし、第一菊池さんの所に私をつれて行ってくれたんだって、本件の問題でつれて行ってくれたんだって、あれは何もそういうことをしなくてもいいんですからね、とこういうようなことだったです。」と答えている。この証言に照らせば、検察官に対する昭和三六年九月二一日付供述調書(丙二)が録取された折、永田が検察官に対し、田中に差引くよう指示した田中の分としての二、三百万円につき、田中が秘書的サービスをしてくれていたので、儲った折に小遣をやった旨を供述したのを、検察官はこれについて秘書的サービスとは何を意味するかを問いただし、永田の答えるサービスの例を銀行員としてのサービスと評価し、小遣をやるのはこのサービスに対する謝礼だと認め、そのため「小遣をやる、」との表現を用いずに、ただ、「礼をやる」、「謝礼だから、」との用語で供述調書を作成したのではないか、と疑われる。したがって永田の検察官に対する昭和三六年九月二一日付供述調書(丙二)四項中の前述の「大体株式の処分先も」云云から始まり「話合いを菊池との間でした。」で終る供述記載中の、「田中にもいろいろこの融資で斡旋してもらったり世話してもらったりしたんだし、」とある部分も、永田の供述をそのままの表現であらわしたものか、あるいは、「秘書的サービスをしてくれたんだし、」と述べた永田の表現を解釈してあらわしたものかは定かではない。また、永田の検察官に対する右同日付供述調書(丙一)一一項、一二項中の前掲供述記載中の、「田中にも礼をやらなければならないだろうから、」「君への謝礼だから、」とある部分も永田の供述をそのままの表現であらわしたものか、あるいは、「田中に小遣をやらなければならないだろうから、」「君への小遣いだから、」と述べた永田の表現を解釈してあらわしたものかは定かではない。永田の検察官に対する昭和三六年一〇月一〇日付供述調書三項には、「菊池さんから、『田中も今度のことについて、支店長の立場だけでなく、いろいろ心配してくれたから、あれに二、三百万円やってくれ。』という趣旨の話があった。」という供述記載があるが、ここには小遣とも謝礼とも記載がない。この点菊池が永田に実際、「小遣をやってくれ。」といったか、「礼をやってくれ、」といったかはさておき、菊池と永田の間で右の記載のように、「今度のことについて、支店長の立場だけでなく、いろいろ心配してくれたから、田中に二、三百万円やってくれ、」という趣旨の話があったことは、認めるに難くない。
ところで菊池が検察官に対し田中への金銭供与の趣旨を供述した調書として、菊池の検察官に対する昭和三六年九月二二日付供述調書五項中、前述のように、「私が永田に……。『田中にもこの株の引取りや売渡しその他四億円の貸付等でいろいろ面倒をかけ、世話になったんだから、田中にも二、三百万円位お礼としてやらなければならないでしょう。』という話をした、」との供述記載があるが、それ以外の菊池の検察官に対する供述調書中には、その点の供述記載が見当らない。菊池は、当公廷において検察官に対する右九月二二日付供述調書五項中の同供述記載部分につき、「これは田中さんに職業がら儲けた金をやったような意味に聞こえる文章です、この点がこれでは困ると申しあげた。」「田中にも、この融資のことでいろいろ世話になっているから、二、三百万円お礼をやらなければならない、というような……意味でなくて話したのですが、まあ大同小異だから、君、いいだろう、というようなお話があるもんですから、それがこういう事件になると思いませんから、それで賛意を表したような次第です。」と供述するが、この場合検察官にどういう意味のことを話したかについては明らかにしていない。しかし菊池が洋糖株売買を共同事業としてこれで金儲けをする気があったとは、認め難いこと、並びに永田が洋糖株買取資金として金四億円の融資をうけるに際し、田中においてとくに好意ある取計らいをしたとは認め難いこと、いずれも前述したとおりであるから、菊池が永田において四億円を貸付けられたこと自体に対し田中に謝礼をするということはとうていこれを考えることができない。
永田が儲けの一部を田中にやることにした理由に関する永田の検察官に対する供述調書は、つぎの三つである。すなわち、永田の検察官に対する九月二一日付供述調書(丙一)一一項中「田中に対しては、同人が私を菊池さんに引き合せて菊池さんの保証を得、四億円の貸出に尽力してくれたほか、株の買入れ後は、その株価が下落しないかと心配して、再三、山一証券の方に問合せに行ってくれたり、また菊池さんや私の間を往復してくれたりなど、銀行業務以外にもいろいろ骨折ってくれているので、私自身も田中には礼をしなければならないと思っていました。」旨の供述記載、同人の検察官に対する同年一〇月五日付供述調書、四項中「一口に四億円といいますが、これは私にとってもなかなかの大金で、この資金調達ができたのも、田中支店長の口添えで菊池さんの保証をうけることができたからこそであり、これによって私も調停役の責任を果すことができたわけで、そうした田中さんの配慮に対しては、当時感謝の念を持ったことは当然です。」との供述記載および同人の検察官に対する昭和三六年一〇月一〇日付供述調書三項中「さきに述べたように、菊池さんから『田中も今度のことについては、支店長の立場だけではなく、いろいろ心配してくれたから、あれに二、三百万円やってくれ、また頭取もいろいろ物要りが続いているから、この際一千万円ほどやってもらえないか。』という趣旨の話があり、なるほどいわれてみれば、田中が四億の融資について、その手続をするとか、担保に入った洋糖株の受け渡しを扱う等ということは、支店長として当然のことでしょうが、そもそも私が最初に田中に対して四億の借入れの申込をしたときには、『菊池さんの保証があるならば』と暗に銀行としては私の単名では貸出しにくいような意味の発言をし、そしてさらに、菊池さんを説いてみよう、と私と共に菊池さんと訪ねてくれた結果、その保証を引き受けてもらうことができ、四億の融資が早急に実現できて、洋糖問題調停の条件を履行することが、できたのでありますし、さらにひいては、その結果引き取った洋糖株を処分して、六、七千万円の儲けがあったのですから、私としても、田中に対し大いに感謝の気持があったわけです。それに私の田中に対する気持は、同人が毎日のように、ご気嫌伺いにやって来て、その仕事熱心には感心し、将来できるだけ伸してやりたいという気持もありましたので、菊池さんのお話もあり、儲った機会に感謝の気持を表してやろうという気になったわけです。」という供述記載である。これらの供述記載を綜合すると、永田が田中に二、三百万円やろうと考える至った原因となった田中の具体的行為として、
(一) 永田が田中に四億円の融資について借入申込をしたとき、「菊池さんの保証があれば、」と単名では貸付にくいことを田中が永田に話した上、田中が永田に同道して菊池を訪ね、菊池の保証をうるように口添した行為、
(二) 株の買入後、田中が株価の動きを心配して問合せ、また洋糖株の売却に関し、菊池と永田の間を連絡のため、往復する等の骨折りをした行為があって、この二つの行為に対し、永田が、儲けの出た折、謝意を表しようと考えたことが認められるにとどまり、それ以上、永田が四億円の融資をうけたこと自体について、田中に謝礼をする気持があったと認めるには困難である。
右に認定した田中の二つの行為については、菊池もこれを認識していたことは証拠上認められるから、菊池が永田に、「田中も今度のことについては、支店長の立場だけでなく、いろいろ心配してくれたから、あれに二、三百万円やってくれ。」と話した折にも、菊池としては、これらの田中の行為をさして、述べたものと認められる。菊池は、当公判廷において、「田中に二、三百万円やるという話は、本件四億円の融資とは全然関係がない。昭和二九年から数年間の間に、東北砂鉄株式会社の株式売買につき、田中が銀行の職務とは全く関係なしに協力してくれたことがあり、古田さんと共同で五億円位儲けたことがあり、その折お礼をやるといったが、田中が受取らなかったので、いつかの機会に何とかしてやろうと考えており、洋糖株売買で儲けの出た折、永田さんから渡したなら、田中が受取るのではないかと考え、田中に二、三百万円やってくれと申した。」旨供述することは前述したが、菊池に永田との間で少くとも「今度のことについては、支店長の立場だけでなく、いろいろ心配してくれたから、田中に二、三百万円やろう。」という趣旨の話合いが行われたことだけを認定することができるにとどまるから、これを全くかけはなれた菊池の右法廷供述はこれを借信することができない。
永田も当公廷において、「菊池さんから、永田君、この際あなたも田中を小使のように使っているし、私も小使のように使っている。私とあなたの間の連絡は、田中がやっておるのだから、この際二、三百万円小遣をやって下さい、といわれて賛同した。田中を私的サービスに使っているから、小遣をやろうとしたものである。」と供述することは前述のとおりであるが、さらにこれにつけ加えて、「私的サービスとは、田中が飛行場に見送りにきて世話をしてくれるとか、自分の依頼で種々の調査をしてくれるとか、自分の購入する自動車その他のものの買入れの世話をしてくれるとかいった、銀行業務としてのサービスをはなれたものの意味である。」旨を供述する。しかし証人太田輝義のさきに述べた証言に鑑みれば、永田の当公廷における右供述は、にわかにこれを借信し難い。かえって、永田の検察官に対する前述の三供述調書中の供述記載の方が借信に値するものと認められる。
つぎに永田が田中に対し、田中のもらう分、二、三百万円を差引くように指示した折の指示の内容につき、永田の検察官に対する昭和三六年九月二一日付供述調書(丙一)一二項中には、「うち三百万円は君への謝礼だから、君の方でとってくれ。」検察官に対する右同日付供述調書(丙二)二項には、「三百万円は君へのお礼」、検察官に対する一〇月七日付供述調書五項には「君の分として三百万円、」との各供述記載があるにとどまり、田中のどのような行為に対し謝礼をするかについて、その行為の内容をあげて説明がなされたことを明らかにする証拠はない。したがって、田中の検察官に対する昭和三六年一〇月六日付供述調書四項には、「私に対する分は、私が四億円の貸出のためいろいろお世話したり、その株式売買の精算や、その他のサービスをしてあげたりしたので、そのお礼や、これまでも埼銀からの融資や、その他で世話にもなっているし、今後もよろしくという意味で、それらの礼として下さったものと思います。」という推測供述の記載があるが、そこに供述されている「私が四億円の貸出のため、いろいろお世話をした……お礼」、「埼銀からの融資や、その他で世話にもなっているし、今後もよろしくという意味でのお礼、」という部分は、田中が菊池または永田から聞いたことに基く推測であるのか、あるいは、田中が銀行員としての地位、立場に基いてした単なる臆測であるかは、定かではない。したがって、右供述記載のみを証拠として、菊池、永田が、田中のした四億円貸出のための世話に対する謝礼並びにそれまでの融資等の世話と今後の世話に対する謝礼の趣旨で田中に金員を供与したことを認定するわけにはいかない。
結局永田が菊池と相談の上、田中に二、三百万円やろうと考えるに至った原因となった田中の具体的行為が何であるかについては、右にあげた永田の検察官に対する三供述調書中の供述記載以外には明確な証拠はない。そしてこれらの供述記載を綜合して認定された田中の前述の二つの行為は、埼銀支店長という田中の職務と全く関連のないものではない。したがってこれらの行為に対して提供される謝礼が経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律五条、二条にいう、「職務に関する賄賂」にあたるかどうかが審案されなければならない。
同法五条、二条に定める銀行の職員の職務とは、銀行本来の業務を行うため必要な関係にある事務を含むと解せられ、本来の業務を行うために必要な関係にある事務とは、必ずしも本来の業務を行うためこれと不可分の関係にあるものに限られるべきではないが、立法の趣旨に鑑みれば、経済統制的性質をもつ業務を行うため通常必要な関係にある事務に限られるべく、この範囲を超えて、不当に広く解せられてはならない。
本件に即して考慮すれば、株式買取資金を融資する場合、銀行支店長がこの資金で買取られた株式につき、株価の変動を調べ、有利に売却するよう示唆し、またその株式売買の事業が二人によって行われているとき、その間を往復して株式の売却に関し連絡をとるとしても、これらの事務は、金銭貸付という銀行本来の業務を行う上に通常必要なことではない。また、銀行支店長が融資の申込をした者に信用、資力が不十分であるとき、資力、信用の豊かな保証人を紹介し、保証をうけられるように口添することも、金銭貸付という銀行本来の業務を行う上に通常必要なことではない。もちろん右のような各行為は、金銭貸付の業務と関連を有するけれども、経済統制的性質をもつ業務を行うために通常必要な関係にある事務とは認められない。
したがって、永田の検察官に対する前掲三供述調書中の供述記載から認められる、(一)永田が田中に四億円の融資について借入の申込をしたとき、「菊池さんの保証があれば、」と単名では貸付けにくいことを話し、永田に同道して菊池を訪ね、菊池の保証をうけるよう口添した田中の行為、および(二)洋糖株の買入後株価の動きを心配して問合せ、また洋糖株の売却に関し、永田と菊池の間を連絡のため往復した田中の行為は、いずれも経済統制的性質をもつ金銭貸付という業務を行うため通常必要な関係にあるものとは、認められない。さればこれらの行為に対する謝礼として提供される金員は、同法律にいう「職務に関する賄賂」にはあたらない。
而して本件において経済統制的性質をもつ金銭貸付という業務を行うため通常必要な関係にある事務に関し、謝礼としての金員供与の申込が田中になされたことを証する証拠があるとは認められないから、結局菊池、永田が相談の上田中に供与の申込をした金員が同法律五条、二条の職務に関する賄賂であることの証明が不十分である。
第六章 三蔵塔関係の収賄≪省略≫
第七章 法律の適用
被告人楢橋の判示(第一章第二節)の所為はいずれも刑法一九七条一項後段に該当するところ、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により犯情のもっとも重い判示昭和三四年一二月の金一千万円の収受の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で同被告人を懲役三年に処するのを相当と認める。同被告人が収受した判示の賄賂はいずれも没収することができないので、刑法一九七条の五によりその価格合計金二、四五〇万円を同被告人から追徴することとする。
被告人滝嶋の第一章第二節および第二章第一節に判示した所為はいずれも刑法一九八条一項、一九七条一項、罰金等臨時措置法三条一項一号に、第二章第一節に判示した各所為はさらに刑法六〇条に、第四章第二節に判示した所為はいずれも刑法六一条一項、一〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に各該当するので、いずれも所定刑中懲役刑を選択処断することとし、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、刑が重く且つ犯情のもっとも重い判示楢橋に対する金一千万円の贈賄の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人滝嶋を懲役三年に処するのを相当と認める。
被告人滝嶋に対する本件公訴事実のうち商法違反の点は第三章に説示したとおり犯罪の証明がないので、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡をする。
被告人長田の判示第二章第一節の所為はいずれも刑法一九八条一項、一九七条一項、罰金等臨時措置法三条一項一号、刑法六〇条に該当するので、いずれも所定刑中懲役刑を選択処断することとし、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により犯情の重い判示吉崎博美に対する贈賄の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で、被告人長田を懲役八月に処し、情状刑の執行を猶予するのを相当と認めるので、刑法二五条一項により本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予することとする。
被告人浅井の判示第二章第一節の所為は刑法一九七条一項前段に該当するので、所定刑期の範囲内で同被告人を懲役六月に処し、情状刑の執行を猶予するのを相当と認めるので、同法二五条一項により本裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予することとし、同被告人が収受した判示の賄賂は没収することができないので、同法一九七条の五によりその価額金五万円を同被告人から追徴することとする。
被告人久保の判示第四章第二節三および四、同加藤の判示第四章第二節二および四の各所為はいずれも刑法一〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号、共謀の点についてはさらに刑法六〇条に各該当するので、所定刑中いずれも懲役刑を選択処断することとし、以上は右各被告人ごとに刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文一〇条により、いずれも犯情の重い右後者(第四章第二節四)の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で両被告人をそれぞれ懲役八月に処し、いずれも情状刑の執行を猶予するのを相当と認めるので、刑法二五条一項により本裁判確定の日から二年間右各刑の執行を猶予することとする。
被告人菊池の判示第四章第二節三の所為は刑法一〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で同被告人を懲役六月に処し、情状刑の執行を猶予するのを相当と認めるので、刑法二五条一項により本裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予することとする。
被告人菊池に対する本件公訴事実のうち商法違反および経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律違反の点はいずれも犯罪の証明がないので、刑事訴訟法三三六条によって無罪の言渡をする。
訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項本文、連帯負担については同法一八二条を各適用して、主文別表記載のとおり負担させる。
被告人田中、同丹沢、同宮沢、同平沼、同永田に対する本件公訴事実はいずれも犯罪の証明がないので、刑事訴訟法三三六条により右各被告人に対し無罪の言渡をする。
よって主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 荒川正三郎 裁判官 岡村治信 裁判官 時国康夫)
<以下省略>